「賀川豊彦」の版間の差分

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=== 政治家として ===
戦後は[[東久邇宮内閣]]参与や勅選[[貴族院議員]]を務め、[[日本社会党]]の結成にも参画した。民間人として初めて[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]に会った人物であるとされている。終戦直後の目立った活動としては「一億総懺悔運動」への協力が挙げられる。マーク・ゲイン著『ニッポン日記』によると、[[東久邇宮稔彦王]]の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとの事である。同書には、一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判が[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]] (GHQ) により封じられていたともある。[[幣原内閣]]解散後の[[吉田内閣]]組閣の難航に伴い、総理大臣候補として名が挙がった事もあるという。晩年は[[世界連邦運動]]に取り組み、[[1947年]](昭和22年)と翌[[1948年]](昭和23年)には[[ノーベル文学賞]]の候補となり(1947年は候補48人中、1948年は候補45人中)<ref>[http://nobelprize.org/nobel_prizes/literature/nomination/nomination.php?string=Kagawa&action=simplesearch&submit.x=17&submit.y=8&submit=submit The Nomination Database for the Nobel Prize in Literature, 1901-1950] 1948年の推薦者は探検家として有名な[[スヴェン・ヘディン]]である。</ref>、
[[1954年]](昭和29年)から[[1956年]](同31年)の3年連続で[[ノーベル平和賞]]候補者として推薦された<ref>[http://nobelprize.org/nobel_prizes/peace/nomination/nomination.php?string=Kagawa&action=simplesearch&submit.x=14&submit.y=11&submit=submit The Nomination Database for the Nobel Peace Prize, 1901-1950]</ref>。