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|廟号 =
|別名 =
|主君 = [[霊帝 (漢)|霊帝]]→[[少帝弁]]→[[献帝 (漢)|献帝]]
|特記事項 =
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== 生涯 ==
=== 皇族として ===
[[前漢]]の[[魯]]恭王であった[[劉余]]([[景帝 (漢)|景帝]]の第4子)の末裔に当たる。劉焉の先祖は、後漢の[[章帝]]時代の[[元和 (漢)|元和]]年間に[[中原]]から江夏郡に国替された一族の内、江夏郡にそのまま移住した分家筋の家だという<ref>[[高島俊男]]著『三国志きらめく群像』によると、劉焉は章帝の皇子であった平春悼王の[[劉全]]の末裔だと推測されている。平春は江夏郡の地名である。</ref>。
 
若くして州や郡の役所に出仕し、後漢の宗族だという理由で中郎になる。しかし、学問の師であった祝公<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」の注によると、司徒の[[祝恬]]のことだという。</ref>の喪に服するため官職を辞した。
 
陽城山に居住し学問に励み、人々に学問を教えて名声を博し、[[郷挙里選|賢良方正]]に推挙されて[[司徒]]府に招かれた。やがて[[洛陽]]の[[県令]]を経て、[[南陽|南陽郡]][[太守]]・[[冀州]][[刺史]]・[[宗正]]・[[太常]](皇帝の祭祀を司る[[九卿]]の筆頭に当たる役職)を歴任した。
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劉焉は内心では中央の混乱を避けたいと考え、[[交州]]の牧に任命される事を期待していた。しかし、[[侍中]]の[[董扶]]が益州に天子の気があると密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった。
 
やがて、当時の益州刺史の[[郤倹]]([[郤正]]の祖父)の失政が評判となり、[[并州]]や[[涼州]]でも刺史が殺害される事態となったため、劉焉の提案は実現を見る事になった。劉焉は自らの希望通りに監軍使者・益州牧を兼務し、陽城侯に封ぜられ、郤倹を取り調べるという名目で益州に赴任することになった。董扶は蜀郡の属国都尉として劉焉に随行することになり、太倉令で巴西の[[趙韙]]も官職を辞して劉焉に随行した。
 
この頃、後漢の衰退に乗じて[[馬相]][[趙祗]]ら黄巾を号する賊徒が益州で反乱を起こしていた、馬相らは[[綿竹]]県令の[[李升]]を殺害し、さらに雒県を陥落させ郤倹を殺害した。さらに蜀郡・犍為・[[広漢]]の三[[郡]]を蹂躙した。馬相は天子を自称し、その軍勢は五桁に上っていたが、益州従事の[[賈龍]]は千余人の兵を率いて、官民を糾合して馬相らを攻撃して敗走させ、この反乱を鎮圧していた([[馬相の乱]])。
 
=== 独立構想 ===
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南陽・三輔の民数万戸が益州に流入してくると、これらを兵士として編成し、[[東州兵]]という軍団に作り上げたという(『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』)。
 
[[張魯]]という宗教指導者に目をつけ、その母を自分の家に行き来させる程の親密な関係を築いた。さらに張魯を督義司馬に任命し、[[漢中]]に派遣して橋を切って道を遮断し、官吏を殺して中央と分断させた。中央には張魯のせいで連絡が取れなくなったと報告をした。その一方で、劉焉に反発した益州豪族らを弾圧し、[[王咸]][[李権]]([[李福]]の父)ら十余人を殺害した。この振る舞いに、かつて劉焉を迎えた賈龍と犍為太守の[[任岐]]ら現地の豪族は憤激して反乱を起こしたため、劉焉はこれを鎮圧し、賈龍と任岐を殺害した<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、任岐が将軍を自称し、従事の[[陳超]]と共に反乱を起こしている。また、董卓が司徒の[[趙謙]]に命じて益州に侵攻し、それを迎撃に出た賈龍がかえって趙謙に説得されて、劉焉に叛いた事になっている。劉焉は反乱の鎮圧に益州西部にいた[[チベット]]系の[[羌|青羌部隊]]を用いたとされている。</ref>。
 
以降、劉焉は驕り高ぶり、千乗余りの豪華な馬車を作りその勢威を示した。[[荊州]]刺史の[[劉表]]は、劉焉に野心がある事を朝廷に報告したという。
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劉焉の子の内、三男の劉瑁だけが劉焉の手元におり、長男・次男・四男は[[長安]]におり、[[献帝 (漢)|献帝]]に仕えていた<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉範ら三人は劉焉に援助を断られた董卓により、監禁されていた事があるという。</ref><ref>『三国志』蜀志「穆皇后伝」によると、劉焉は後に劉備の妻となる穆皇后の相が、高貴な身分になる人のものだという評判を聞いて、子の劉瑁に娶らせたのだという。</ref>。後に献帝は劉焉を宥めるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞き入れずに劉璋を二度と都に戻さなかった<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『典略』によると、劉焉は仮病を使って劉璋を呼び寄せたという。</ref>。
 
征西将軍の[[馬騰]]は郿に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、[[董卓]]没後に実力者となっていた[[李カク (後漢)|李{{Lang|zh|傕}}]]がいる長安を襲撃する計画を立てていた<ref>『三国志』蜀志「[[許靖]]伝」が引く『益州耆旧伝』によると、[[韓遂]]・馬騰は[[関中]]で争乱を起こした時は、度々劉焉と連絡を取り合っていたという。</ref>。しかし、計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した<ref>『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉焉は校尉の[[孫肇]]を援軍に出して、長安で敗れたという。</ref>。李{{Lang|zh|傕}}は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを殺害し、弟の劉誕も[[処刑]]した。
 
議郎の[[ホウ羲|龐羲]]は、先祖代々劉焉の家と交際があったため、劉焉の孫を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕える事になった。
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[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、劉焉は、子の死や災害など、相次ぐ不幸が重ったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。
 
実力者であった趙韙の思惑で、暗愚との評判であった劉璋が後を継いだ。趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた<ref>『英雄記』によると、長安の朝廷は潁川の[[扈瑁]]を益州刺史に任命し、荊州別駕の[[劉闔]]と劉璋の将の[[沈彌]][[婁發]]・[[甘寧]]を叛かせ劉璋を攻撃させたが勝てず、彼等は荊州に逃亡した。劉璋は趙韙を荊州に侵攻させるため、朐に駐屯させたという</ref>。
 
張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。