「アレクサンドル・バラノフ (探検家)」の版間の差分

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[[1795年]]、ロシア人以外のヨーロッパ人商人の進出を懸念したバラノフはアラスカ南東部の島(現在の[[バラノフ島]])で現地の[[トリンギット]]族から土地の使用権を買い、[[1799年]]にロシア人と[[アレウト族]]からなる移民団を送り新たな入植地ミハイロフスク(現在の[[シトカ]]付近)を作った。シェリホフは[[1795年]]に死去し、その跡を継いだ[[ニコライ・レザノフ]]の意向により、[[1799年]]に設立された[[露米会社]]の支配人はバラノフとなっている。
 
バラノフはアラスカ・[[アリューシャン列島]]・[[千島列島]]に露米会社が持つ権益のすべてを管理した。[[1802年]]にトリンギット族との対立でミハイロフスク入植地は破壊されたが、バラノフは[[1804年]]に軍隊を連れて島に戻りトリンギット族と交戦した([[シトカの戦い]]を参照)。彼は新たな拠点を築き、これを故郷近くの大きな町[[アルハンゲリスク]]にちなんでノヴォ・アルハンゲリスク(現在の[[シトカ]])と名付け、[[ロシア領アメリカ]]の首都とした。
 
アラスカ植民地は食糧難に苦しんだが、[[アシカ]]や[[ラッコ]]の猟とその毛皮の取引で利益を出した。バラノフは先住民を指揮して[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]沖に至るまでの広い範囲で猟を行わせた。また先住民に対する初等教育の機会拡大を支持して学校などを建設している。この時期、[[ロシア正教会]]の聖職者がアラスカに入り先住民への布教を行ったが、先住民が露米会社の奴隷同然となっており、毛皮商人が先住民に対して残虐にふるまい搾取していることを非難したため、バラノフと聖職者の関係は荒れがちであった。