「安帝 (漢)」の版間の差分

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延光元年([[122年]])、天候の不順は続き、夏4月に司空の陳褒が免職となり、5月に[[劉授]]が司空となった。高句麗が降ったが、虔人羌が反乱を起こし、穀羅城を攻撃した。度遼将軍の耿夔がこれを討ち破った。冬10月、鮮卑が鴈門・定襄を攻撃した。11月には鮮卑は太原を攻撃した。一方で焼当羌が降伏してきた。
 
延光2年([[123年]])、冬10月に太尉の劉愷が罷免し、司徒の楊震を太尉にし、[[劉]]を司徒とした。11月に鮮卑は南匈奴に曼柏で敗れた。蜀郡の西部に属国都尉を設置した。
 
延光3年([[124年]])春2月、安帝は東に巡察し、祭祀を執り行った後、3月に京師に帰還した。太尉の楊震が罷免され、[[石為]]が後任となった。
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延光4年([[125年]])2月に安帝は南に巡狩したが、3月に客死した。32歳であった。従兄弟の北郷侯・[[少帝懿|劉懿]](章帝の孫で済北王[[劉壽]]の子)が擁立され、閻皇后が皇太后として臨朝し、兄の[[閻顯]]が車騎將軍としてそれを助けた。
 
夏4月、太尉の[[馮石]]を太傅にし、司徒の[[劉熹]]を太尉に、参録尚書事で前司空の李郃を司徒となる一方、大将軍耿寶、中常侍[[樊豊]]、侍中[[謝惲]]、[[周広]]らが罪に問われ、樊豊、謝惲、周広は獄死し、耿寶は自殺した。安帝は恭陵に葬られた。廟号は恭宗。
 
== 治世 ==