「如意ヶ嶽」の版間の差分

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Hman (会話 | 投稿記録)
太陰暦時代には夕方に点火していた説を加筆
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如意ヶ嶽は京の東の口、京と大津を繋ぐ経路の一つとして要衝であり、如意城(にょいのじょう<ref>読みは『拾遺都名所図会』による。</ref>)、如意ヶ嶽城、あるいは[[中尾城]]と呼ばれる城が築かれていた。正確な所在については諸説あり、慈照寺の裏に当たる中尾山とも、如意ヶ嶽と大文字山の間であるとも言われているが、現在は二つ存在したとする説が有力である<ref group = *>『京都坊目誌』では同一のものとしているが、『資料京都の歴史 8』などでは別の物とされている。別々とした場合、その位置はかなり離れたもの。両城をプロットした地図については『資料京都の歴史 8』、『第49とれんち』、『京都市遺跡地図台帳』などを参照。</ref>。
 
一つは中尾城と呼ばれ、如意ヶ嶽の北西の支峰、中尾山に遺構が見られている<ref name = shouwa />。[[1549年]](天文18年)には12代将軍[[足利義晴]]および[[細川晴元]]が築城を行ったとされ、『[[万松院殿穴太記]]』ではその威容について「名城」であるなどと言及している<ref name = shouwa />。義晴は[[1550年]](天文19年)5月に没し、嫡男の13代将軍[[足利義輝]]は7月にこの城に移り、[[三好長慶]]軍と京都で戦闘を行ったが([[中尾城の戦い]])、11月に落城、焼失した。京都市遺跡地図台帳420。
 
もうひとつは如意ヶ嶽城などと呼ばれ、如意ヶ嶽山頂・大文字山山頂付近。『[[応仁記]]』巻三、応仁別記(15-16世紀頃)または[[大乗院寺社雑事記]](1471([[1471]]、文明3年)によれば、1496[[1469]](文明元年)5月に[[多賀高忠]]が如意ヶ嶽に布陣したとの記述がある。恒久的な築城がなされたわけではないと見られるが<ref>『資料京都の歴史 8』p.180、および別添地図。</ref>、現在も空堀や土塁などの遺構が残っている<ref name = hakken1 />。京都市遺跡地図台帳423。
 
隣接地域には[[将軍山城|北白川城]]、[[東岩倉山城]]など、他にも山城が見られる<!-- 『50とれんち』では北白川城との連携についても言及が見られている。--><ref name = omou /><ref name = miura /><ref name = yamaaruki /><ref name = kyoutoshino_chimei /><ref name = siryou_shishigatani />。