「黒田孝高」の版間の差分

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九州平定後の天正15年([[1587年]])7月3日、本拠地の[[馬ヶ岳城]]をはじめとする[[豊前国]]の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は[[大友吉統]]領)、およそ12万石([[太閤検地]]後17万石以上)<ref group="注釈">[[蔵入地]]は2万石程。自己申告である差出検地を認められている。</ref>を与えられた(その直後に[[中津城]]の築城を開始)。しかし、7月に[[佐々成政]]が[[肥後国]]の仕置きに失敗し、[[隈部親永]]らによる[[肥後国人一揆]]が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも[[野中鎮兼]]ら[[国人]]勢力が肥後国人に呼応、また、[[伊予国]]への転封を拒否し3万石を[[改易]]されていた[[城井鎮房]]が挙兵して以前の居城であった城井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となる<ref group="注釈">豊前国でも[[上毛郡]]の如法寺久信などによる小規模な一揆は起きていた。『金苗文書』</ref>。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり<ref group="注釈">その間、妹婿の[[尾上武則]]などが戦死している。</ref>、兵站を断ち徐々に鎮圧する<ref group="注釈">天正15年([[1587年]])12月、下毛郡の犬丸城の攻略に対し、秀吉より長政が感状を受けている。</ref>。翌16年1月頃、[[中津城]]が完成。4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり<ref name="bunsho"/>、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす<ref name="kafu"/><ref group="注釈">城井鎮房の嫡男・[[城井朝房]]と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事で降伏を認め、和議を結んだが、孝高が朝房を伴い肥後国に出陣していた際、[[中津城]]を訪れた鎮房を、長政が酒宴の席で謀殺した。その報告を受けて、孝高は朝房を殺害した。(吉永正春『戦国九州の女たち』西日本新聞社、1997年)。朝房の妻子は[[宝珠山村]]で匿われている。</ref><ref group="注釈">『川角太閤記』では、まだ妻がいなかった長政に鎮房の17歳の息女と縁組をし、孝高が出陣中に留守居役として鎮房を誘い出して討ち果たした。孝高は「息女たちは親類のいる周防国へ送れ」と指示していたが、長政は手ぬるいとして息女と乳母を火炙りの刑、侍女たちを磔の刑にしたとする。ただし、既に長政には[[蜂須賀正勝]]の息女・糸姫を正室としている。</ref>。
 
天正17年([[1589年]])5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き軍師として仕える。豊前[[中津城]]は殆ど長政に任せ、京都の猪熊、伏見屋敷、大阪天満屋敷を拠点とする。
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原の陣]]では[[北条氏政]]・[[北条氏直|氏直]]父子を[[小田原城]]に入って説得し、無血開城させる功績を立てた<ref name="bunsho"/。この時、北条氏直から名刀「[[福岡一文字|日光一文字]]」([[国宝]])などの家宝を与えられている<ref name="kafu"/><ref group="注釈">[[小田原の陣]]の頃に、徳川家康との親交があったとされ、家康次男の[[結城秀康]]の[[結城氏]]への養子入りに関わっている。</ref>。