「富岡定俊」の版間の差分

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| 生年月日 = [[1897年]](明治30年)[[3月6日]]
| 没年月日 = [[1970年]](昭和45年)[[12月7日]]
| 画像 = UmezuTomioka Sadatoshi.jpgJPG
| 画像サイズ =
| 画像説明 = 1951年
| 画像説明 = 降伏文書調印式に出席する富岡(日本代表の2列目右端)
| 渾名 =
| 生誕地 = {{JPN}}、[[広島県]]
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1945年4月の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]による[[坊ノ岬沖海戦|海上特攻]]について事前に連合艦隊参謀[[神重徳]]が許可を取りに来たことについて富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで[[小沢治三郎]]軍令部次長のところで承知したらしい」と話している<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁</ref>。
 
[[File:Umezu.jpg|thumb|250px| 画像説明 = 降伏文書調印式に出席する富岡(日本代表の2列目右端)]]
終戦が迫ると、軍令部次長[[大西瀧治郎]]中将は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてた。富岡は[[及川古志郎]]大将を説得する割当になった。出発前に富岡は、作戦課部員に「私は天皇陛下の御聖断に従うつもりである。もし、私と異なる意見のものは率直に言ってほしい」と話したが、ほとんど応答はなかった<ref>草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫</ref>。終戦時に自決した大西次長は遺書の中で富岡に「御補佐に対し深謝す」「総長閣下にお詫び申し上げられたし」と残した([http://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E ウィキクォート:大西瀧治郎])。