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'''恭帝'''(きょうてい)は[[東晋]]の第11代(最後)の[[皇帝]]。9代皇帝[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]の次男。
 
== 生涯 ==
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司馬徳文は宋によって[[永州市|零陵]]王に封じられた。なお、晋に禅譲した[[魏 (三国)|魏]]皇室の子孫である陳留王・[[曹虔嗣]]は当初司馬徳文の上席とされたが、近い王朝を重んじるべきという[[荀伯子]]の進言で、司馬徳文が上席となった。暗殺を恐れた司馬徳文はいつも妃の[[チョ霊媛|褚霊媛]]と一緒の部屋に住まい、出された料理は自分で煮てから食べた。しかし[[永初 (南朝宋)|永初]]2年([[421年]])9月丁丑の日、武帝の差し向けた兵により殺害された。齢36。武帝は司馬元瑜に零陵王を継がせた。
 
東晋の正統性を認めていない『[[魏書]]』によると、武帝の兵に服毒[[自殺]]を命じられたが、「[[仏教]]では、自殺者は人に[[転生]]できない」と拒んだので撲殺されたという。つまり、司馬徳文は仏教徒であった。また、同書によれば褚霊媛の兄・[[チョ季之|褚季之]]と弟の[[チョ淡之|褚淡之]]は武帝に通じて、司馬徳文の子が生まれる度に殺害したという。
 
==宗室==
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[[Category:晋の皇帝]]
[[Category:386年生]]
[[Category:421年没]]