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'''仁粋大妃'''(にんすいたいひ、[[正統 (明)|正統]]2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[1437年]][[10月7日]]) - [[弘治 (明)|弘治]]17年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]([[1504年]][[5月11日]])、'''昭恵王后'''(しょうけいおうこう / ソヘワンフ、{{Lang-ko|소혜왕후 한씨}}))は、[[李氏朝鮮]]第9代国王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の生母。[[本貫]]は[[清州市|清州]][[韓 (姓)|韓氏]]。[[諡号]]は'''仁明懿昭王后'''(にんすいきしゅくめいいしょうけいおうこう、{{Lang-ko|인수휘숙명의소혜왕후}})。
 
== 生涯 ==
清州韓氏の名士、[[韓確]](かん かく/ハン・ハク {{lang|ko|한확}}、後に西原府院君襄節公)の娘として[[漢城府]]に生まれた。
 
2人の叔母が[[明]]の[[永楽帝]]の后妃、康惠荘淑麗妃韓氏と[[宣徳帝]]の后妃、恭愼夫人韓氏であった。また、姉が[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の2番目の庶子の[[李ゾウ|桂陽君]]と結婚するなど、清州韓氏の一族は両国の王室と婚姻関係を結んでいた。 父の韓確も明との交渉を専門に担当した当時の外交官として明からの寵愛を土台に出世街道を走った。
 
韓氏は幼少の頃から文才に優れ、朝鮮第4代国王[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の孫であった[[義敬世子|桃源君]]に嫁いで2男1女をもうけ、舅の首陽大君(桃源君の父)が甥にあたる[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]から王位を奪って即位([[世祖 (朝鮮王)|世祖]])し、夫が[[皇太子|王世子]](義敬世子)になるのに伴い、[[景泰]]6年([[1455年]])に世子嬪になった。しかし、夫の義敬世子が突然病気で逝去するとすぐに貞嬪(後に粋嬪)という名前を受け、宮廷を離れて生活することになった。
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[[Category:李氏朝鮮の後宮]]
[[Category:追尊された人物李氏朝鮮の王妃]]
[[Category:ソウル特別市出身の人物]]
[[Category:1437年生]]
[[Category:1504年没]]
[[Category:朝鮮半島の后妃]]
[[Category:李氏朝鮮の王妃]]