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'''廃妃尹氏'''(はいひいんし、ペビユンシ、生年不明? - [[1482年]]8月)は[[李氏朝鮮]]第9代国王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の2人目の[[王妃]]で、第10代国王[[燕山君]]の生母。[[本貫]] 咸安。尹起畎(又は尹起畝)と 申氏([[申叔舟]]が従兄)の娘。[[燕山君]]の在位中の[[1504年]]に復位、斉献王后(チェホンワンフ)と追号されたが、[[1506年]]、[[中宗 (朝鮮王)|中宗反正]]の後に再び復位を取り消された。
 
 
== 生涯 ==
貧しい[[両班]]家出身だった尹氏は父の死後、成宗4年(1473年)に揀擇後宮で入宮して淑儀に封じられた。母方のシン・スクチュのいとこだった。美しい容姿の持ち主であった尹氏は成宗の寵愛を受けた。
 
成宗5年(1474年)に成宗の最初の妃 恭惠王后が崩御すると、それから2年後に 成宗の生母[[仁粋大妃|仁粹大妃]]を含めた多くの人々の反対にもかかわらず、尹氏を深く寵愛していた成宗は淑儀であった彼女が妊娠中に、彼女を王妃に冊封した。王妃に昇格して4ヶ月の後、元子([[燕山君]])を産んで中殿の地位はより一層確かだった。
貧しい[[両班]]家出身だった尹氏は父の死後、成宗4年(1473年)に揀擇後宮で入宮して淑儀に封じられた。母方のシン・スクチュのいとこだった。
美しい容姿の持ち主であった尹氏は成宗の寵愛を受けた。
 
成宗5年(1474年)に成宗の最初の妃 恭惠王后が崩御すると、それから2年後に 成宗の生母[[仁粋大妃|仁粹大妃]]を含めた多くの人々の反対にもかかわらず、尹氏を深く寵愛していた成宗は淑儀であった彼女が妊娠中に、彼女を王妃に冊封した。
王妃に昇格して4ヶ月の後、元子([[燕山君]])を産んで中殿の地位はより一層確かだった。
 
しかし、尹氏はかなり[[嫉妬]]深い性格であったとされ、王や宮廷の[[女官]]に尊大な態度を見せたり、成宗の寵愛を受けた女官を殺害するなどといったわがままな行為が目立った。最初は寛容に接していた成宗も、次第に尹氏を疎んじるようになり、尹氏のもとを訪れた成宗は尹氏の母が残していった箱に、[[呪詛]]の文が書かれた書を発見した。成宗は、この件によって尹氏を王妃から[[嬪]]の位に降格した。
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{{朝鮮王妃}}
 
{{DEFAULTSORT:はいひいんし}}
[[Category:李氏朝鮮の王妃]]
[[Category:1482年没]]
[[Category:刑死した人物]]
[[Category:追尊された人物]]
[[Category:朝鮮半島の后妃]]