「ウィリアム・キッド」の版間の差分

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[[1698年]][[1月30日]]、キッドは商船のクェダ・マーチャント号(Quedah Merchant)を発見し、略奪を決意する。相手の警戒を解くため、フランス国旗を揚げて接近し、商船もフランス船であるかのように振舞った。相互の船は接近し、キッドとその乗員は略奪を開始するが、略奪がほぼ終わってからキッドはこの船がイギリス船であることに気がつく。乗員と所有者に船を返すべく相談を持ちかけたが、相手方乗員は提案を拒絶し、これ以後キッドは2隻の船団を率いることになる。
 
[[image:Captain Kidd hanging.jpg|left|200px|thumb|縛り首になったキッド船長]]
[[1698年]][[4月1日]]、キッドとその船団は[[マダガスカル]]島に到達する。この地でキッドは初めて海賊と遭遇する。かつてキッドの下で副船長として働いていたが、船を盗み海賊として活動している[[ロバート・カリフォード]](Robert Culliford)とその船モカ・フリゲート号(Mocha Frigate)である。キッドは襲撃を決意し、乗員に船を捕らえるように指令を出すが、乗員のほとんどが謀反を起こし、カリフォードに合流してしまう。わずか13人の船員しかキッドの元に残らず、キッドは帰国を決意する。アドベンチャー・ギャリー号を燃やして破棄し、もう1隻のクェダ・マーチャント号で出発する。
 
[[ニューヨーク市]]に帰り着くもののその場で拘束され、[[ストーン刑務所]]に留置される。その後イギリスに護送され、海賊行為とウィリアム・ムーアの殺人で起訴され、悪名高い[[ニューゲート監獄]]に投獄される。全ての罪に対して有罪と宣告され、1701年5月23日に[[ロンドン]]で絞首刑にされる。
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== 政争に巻き込まれた説 ==
一般にはキッドは貴族らスポンサーを騙して出資を募り、それを元手に海賊行為を行っていたとされる。だが、ミュージアム・オブ・ロンドン・ドックランズで開催されている「海賊  キャプテン・キッド物語」では、キッドは富裕層の対立に巻き込まれたという見方を示している<ref>[http://www.cnn.co.jp/showbiz/30002953.html CNN 2011.06.02「カリブの海賊の背後にエリート貴族」] 2011年9月5日閲覧</ref>。それによればキッドの怪しい事業はスポンサーの意思によるもので、それによって利益を脅かされると考えた東アジア会社が裏で糸を引いてキッドを犯罪者に仕立て上げたという。実際、キッドの裁判では彼の無実を示す証拠が紛失し、有利な証拠の提出が禁じられていた。
 
== フィクションと伝説 ==