「福岡藩」の版間の差分

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質素倹約を旨とする藩祖、[[黒田孝高|黒田如水]]の教えにより藩内には他藩のような豪壮な[[大名庭園]]などは作らず、後年、奥座敷の茶室、梅林[[友泉亭]]を建立した程度である。
 
2代・[[黒田忠之|忠之]]は父・長政の遺言により弟の[[黒田長興|長興]]に筑前[[秋月藩]]5万石、[[黒田高政|高政]]に筑前[[直方藩]]4万石を分知した。これにより石高は43万3千石となった。忠之の時代には[[#黒田騒動|黒田騒動]]と呼ばれる[[お家騒動]]が起きた。
 
6代・[[黒田継高|継高]]は直方藩より本藩の養嗣子となったため直方藩は廃藩となった。このため所領4万石は福岡藩に還付され、石高は47万3千石となり[[廃藩置県]]までこれが表高となった。
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その後、慶応4年([[1868年]])勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。
 
[[明治]]3年、([[1870年]])、[[日田県]]知事[[松方正義]]より福岡藩士による[[太政官札]]偽造してそれが日田県内に流通しているとする事件を告発が挙げられる。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日([[1871年]][[8月17日]])、12代・[[黒田長知|長知]]は[[知藩事]]を解任され、後任の知藩事には[[有栖川宮熾仁親王]]が就任した。熾仁親王の福岡藩支配は[[廃藩置県]]までの12日間に過ぎなかった。この際知藩の[[世襲]]が認められなかったことは江戸時代の[[改易]]匹敵する重い処分であ関わった。この際、最高幹部である大参事立花増美・矢野安雄、権大参事小河愛四郎、小参事徳永織人・三隅伝八の5名が実行犯として処刑され、長知を始めとする10人以上が閉門や流罪などにされている。その後、[[廃藩置県]]により[[福岡県]]となった。この事件で名前を上げた[[松方正義]]は明治新政府で出世の道を掴んだ
 
明治17年([[1884年]])福岡藩黒田家は新政府の華族令により[[侯爵]]となりを叙爵。[[華族]]に列し、一族は福岡を離れ、東京に移住した。
 
== 黒田騒動 ==