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[[永久 (日本)|永久]]3年([[1115年]])、[[左大臣]] [[源俊房]]の子で醍醐寺14代[[座主]][[勝覚]]が'''灌頂院'''(かんじょういん)として開き、後に[[仏教]]の[[三宝]]にちなんで現在の名に改めた。[[康治]]2年(1143年)に[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の[[御願寺]]となっている。 
 
[[鎌倉時代|鎌倉]]から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて、[[成賢]](7世)・[[憲深]](11世)・[[賢俊]](21世)と高僧を輩出し、[[足利尊氏]]から厚く保護された。賢俊の没後、三宝院の急激な台頭に対する醍醐寺内部を含む内外の反発の動きを受けて[[光済]](22世)が配流されるなどの苦難を受けるが、[[応安]]7年/[[文中]]3年([[1374年]])になって[[足利義満]]が三宝院23世である[[光助]]を[[室町幕府]]の祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じたこと<ref>『大日本古文書』醍醐寺文書65号</ref>から幕府の中でも特別な扱いを受けた<ref>大田壮一郎「室町幕府の宗教構想と武家祈祷」(初出:『ヒストリア』188号(2004年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5)</ref>。25世[[満済]]は「[[黒衣の宰相]]」とも呼ばれ、[[応永]]3年([[1396年]])に[[足利義満]]の[[猶子]]となって醍醐寺座主に任じられ、続いて[[准三后]]となり、後には[[足利義教]]の[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]擁立にも活躍するなどした。以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立する。また、古くから醍醐寺は[[真言宗]]系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・[[山伏]]の取締にあたるようになる。
 
[[応仁の乱]]で三宝院が焼失し、廃寺同然となるが、[[安土桃山時代]]に醍醐寺金剛輪院の院主であった[[義演]]は[[豊臣秀吉]]の信頼が厚かったため、同院を中心に有名な「[[醍醐の花見]]」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。桜で有名な[[醍醐寺三宝院庭園]]はその時期に整備された。義演は[[徳川家康]]からも信任を受け、[[江戸時代]]初期の[[天台宗]]系修験道である[[本山派]]本山の[[聖護院]]との相論では[[江戸幕府]]の支援を受けて、[[慶長]]18年(1613年)に[[修験道法度]]が制定された。
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*[[醍醐寺三宝院庭園]]- 秀吉の作庭になると伝え、築造には[[賢庭]]の名も伝えられている。中央に据えられた藤戸石は[[聚楽第]]から運ばれた由緒のあるもので天下の名石として名高い。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
*[[古都京都の文化財]]