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Ichiro Kikuchi (会話 | 投稿記録)
明治時代の勧進について書きました
Ikedat76 (会話 | 投稿記録)
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当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も、京都の後白河法皇や[[九条兼実]]、[[鎌倉]]の[[源頼朝]]などに浄財寄付を依頼している。途中、いくつもの課題もあった<ref>もっとも大きなものは、大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で、塔頭を再建したい重源と住むべき場所である僧房すら失っていた大衆(僧侶)達の間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。</ref>ものの、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された<ref>大仏の開眼供養は文治元年8月28日(1185年9月23日)に開催され、著名な南大門は正治元年(1199年)に完成しているが、全ての作業完成が宣言されたのは焼討から100年以上経た正応2年1月18日(1289年2月9日)のことであった。</ref>。なお、重源は東大寺再建に際し、[[西行]]に[[奥羽]]への[[砂金]]勧進を依頼している。
 
以後も東大寺の施設の再建や管理維持のための役職として大勧進職は継続され、[[栄西]](2代目)・[[行勇]](3代目)・[[円爾]](10代目)・[[忍性]](14代目)・[[円観]](24代目)らが任命され、戦国時代に財政難によって一度は廃絶されるも[[江戸時代]]の再建時には[[公慶]]が大勧進職を復興して東大寺の再建を果たしている。明治時代になって、大仏殿などが荒廃し、再建が必要とされた。明治16年全国大勧進の許可がでた。そのためには大仏会が組織された。明治18年の近畿地方大洪水にもめげず寺内の僧侶が勧進に赴いた。明治大修理が行われたが、2度の戦争で完成は延期され、大正3年5月2日に大仏殿落慶供養が行われた。<ref>平岡定海「大仏勧進ものがたり」2014年 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06579-5 pp143-158.</ref>
 
=== 勧進職の普及とその変質 ===