「櫛橋光」の版間の差分

その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]]中津12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。
 
、孝高や息子、長政は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、[[1604年]](慶長9年)夫・孝高の死後に出家し、照福山顕光院[[圓應寺]]などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
 
京都に於いても、[[浄土宗]]報土寺に塔頭、照福院を建立。その後報土寺が寺地を移転したため、本寺に統合されたが、墓所は現在に残る。
[[1627年]]([[寛永]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。
(福岡の圓應寺が後に火災で焼失したため、こちらの墓所は本墓として貴重である)
夫、孝高や[[豊臣秀吉]]も報土寺照福院を訪れたと過去帳に記載がある。本人の肖像画も伝来し、現在は[[京都国立博物館]]に寄託されている。
 
[[1627年]]([[寛永]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)、圓應寺(福岡)にある。
 
== 子孫 ==
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