「広島文理科大学 (旧制)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
135行目:
: 1945年(昭和20年)8月の原爆被災により校舎のほとんどが焼失した文理大は各地に分散して疎開、[[1946年]](昭和21年)1月には[[佐伯郡]][[江田島|江田島町]]津久茂国民学校・旧徴用工寮で第3学年および文科系第1・2学年の、2月には[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]][[黒瀬町|乃美尾村]]の旧[[海軍衛生学校]]で理科系第1・2学年の授業がそれぞれ再開された。4月頃には校舎・施設に大きな被害を受けた文理大に対し[[山口県]]などから移転・誘致の申し出があったが、原校地への復帰という大学当局の意向は動かず、4月15日には理科系学生が、9月には文科系学生が補修された東千田町校舎にそれぞれ復帰した(ただし化学科は[[倉敷市]]の倉敷農業研究所、地学科については佐伯郡の玖波国民学校で当分授業を行った)。
; 新制広島大学への継承と現状
: 文理大の東千田町校地は新制広島大学の本部キャンパスとして継承され、大学正門から旧文理大本館(理学部1号館として継承)の正面までキャンパスの中央通り(初代学長[[森戸辰男]]にちなみ「森戸道路」と命名)が建設された。しかし1980年代以降、広大キャンパスの東広島移転が進行したため、旧・本部キャンパスのうちかつての文理大校地が占めていた部分は、旧文理大本館および正門門柱(旧文理大正門門柱)のみを残して施設が解体・撤去され、[[1997年]]以降「[[東千田公園]]」となっして整備されている(旧・本部キャンパス全体の現状については、[[広島大学#東千田キャンパス|広島大学東千田キャンパス]]も参照)。なお通信教育関係など一部施設のみを残している東千田町キャンパスに入ってすぐの場所に「広島大学原爆死没者追悼之碑」(1974年8月)および「廣島高等師範學校・廣島文理科大學校發祥之地」碑(1979年8月)が建立されている。
 
=== 大学本館 ===