「留岡幸助」の版間の差分

 
帰国後、国内でも[[感化院]]の設立のために奔走する。[[1899年]](明治32年)、ようやく資金の目処もつき、[[巣鴨]]に土地を購入し、家庭学校を設立。<ref>感化院としては、これ以前に1885年に高瀬真卿の東京感化院、その翌年1886年の千葉県仏教各宗寺院連合の[[千葉感化院]]がある。前者は神道、後者は仏教精神によるもの。  (それ以前にも池上雪江の活動も…)</ref>留岡は、また牧会者として[[霊南坂教会]]に所属し、「[[基督教新聞]]」の編集を行った。
 
[[1900年]](明治33年)、最初の妻であった夏子と死別。のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、巣鴨家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚。
 
[[1914年]](大正3年)、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむらあざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。[[1915年]](大正4年)11月9日、[[藍綬褒章]]を受章<ref>『官報』第993号、大正4年11月23日。</ref>。
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