「東ローマ帝国の皇帝一覧」の版間の差分

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|350年 <br> マグネンティウスにより暗殺される
|-
|align="center"|[[Image:ConstantineBust of Constantius II (Mary Harrsch).jpg|100px]]
|'''[[コンスタンティウス2世]]''' <br> <small>CAESAR FLAVIVS IVLIVS '''CONSTANTIVS''' AVGVSTVS </small>
|[[317年]][[8月7日]]<br>[[シルミウム]]<br>(属州[[パンノニア]])
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== ドゥーカス朝 ==
{{Main|ドゥーカス王朝}}
{|class="wikitable"
*[[コンスタンティノス10世ドゥーカス]]({{lang|el|Κωνσταντίνος Ι' Δούκας}})([[1059年]] - [[1067年]])
|-
*[[エウドキア・マクレンボリティサ]] ([[1067年]] - [[1068年]]) (女帝)
!rowspan=1 width="100"|肖像
*[[ロマノス4世ディオゲネス]] ({{lang|el|Ρωμανός Δ' Διογένης}})([[1068年]] - [[1071年]])
!rowspan=1 width="180"|名称
*[[ミカエル7世ドゥーカス]] “パラピノ”({{lang|el|Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης}})([[1071年]] - [[1078年]])
!rowspan=1 width="100"|生年と誕生地
*[[ニケフォロス3世ボタネイアテス]]({{lang|el|Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης}})([[1078年]] - [[1081年]])
!rowspan=1 width="100"|在位期間
!rowspan=1 width="190"|即位背景
!rowspan=1 width="140"|没年
|-
|align="center"|[[Image:Costantino_X_-_histamenon_-_Sear_1847v.jpg|100px]]
|'''[[コンスタンティノス10世ドゥーカス]]''' <br> {{lang|el|Κωνσταντίνος Ι' Δούκας}}
|1006年
|1059年 - [[1067年]]5月
|アンドロニコス・ドゥーカスの子。イサキオス1世コムネノスが病で退位した後、元老院議員であったコンスタンティノスが皇帝として即位した。
|1067年5月
|-
|align="center"|[[Image:Romanos_et_Eudoxie.JPG|100px]]
|'''[[エウドキア・マクレンボリティサ]]''' <br> {{lang|el|Ευδοκία Μακρεμβολίτισσα}}
|1021年
|1067年5月 - [[1068年]]
|コンスタンティノス10世ドゥーカスの皇后。夫が死去した後、女帝として即位した。
|[[1096年]]
|-
|align="center"|[[Image:Romanos_et_Eudoxie.JPG|100px]]
|'''[[ロマノス4世ディオゲネス]]''' <br> {{lang|el|Ρωμανός Δ' Διογένης}}
|?
|1068年 - [[1071年]]
|カッパドキアの将軍。[[セルジューク朝]]の侵攻もあり民衆や貴族が強力な軍事政権の樹立を望んだため、エウドキアと結婚し、皇位を譲られて即位した。
|[[1072年]]
|-
|align="center"|[[Image:NomismaMikaelVIIDoukas.jpg|100px]]
|'''[[ミカエル7世ドゥーカス|ミカエル7世ドゥーカス“パラピノ”]]''' <br> (4分の1を失った) <br> {{lang|el|Μιχαήλ Ζ' Δούκας ο Παραπινάκης}}
|1050年
|1071年 - [[1078年]]
|コンスタンティノス10世ドゥーカスとエウドキア・マクレンボリティサの子。ロマノス4世ディオゲネスが[[マンズィケルトの戦い]]でセルジューク朝に大敗し、ロマノス自身も捕虜となってしまったため、エウドキアは夫を廃して息子のミカエルを皇帝として即位させた。
|[[1090年]]?
|-
|align="center"|[[Image:Nicephorus III.jpg|100px]]
|'''[[ニケフォロス3世ボタネイアテス]]''' <br> {{lang|el|Νικηφόρος Γ' Βοτανειάτης}}
|1002年頃
|1078年 - [[1081年]]
|アナトリコン・テマの長官。セルジューク朝の侵攻や皇位をめぐる内紛、財政破綻などから混乱を極め、各地の有力者による内乱も頻繁に勃発していた中、ニケフォロスは小アジアで反乱を起こし、コンスタンティノポリスで起きた反乱によって退位したミカエル7世の後を継いで、皇帝として即位した。
|1081年12月10日
|-
|}
 
== コムネノス朝 ==
{{Main|コムネノス王朝}}
{|class="wikitable"
*[[アレクシオス1世コムネノス]]({{lang|el|Αλέξιος Α' Κομνηνός}})([[1081年]] - [[1118年]]) (イサキオス1世の甥)
|-
*[[ヨハネス2世コムネノス]] “カロ・ヨハネス”({{lang|el|Ιωάννης Β' Κομνηνός o Καλος}})([[1118年]] - [[1143年]])
!rowspan=1 width="100"|肖像
*[[マヌエル1世コムネノス]]“大帝”({{lang|el|Μανουήλ Α' Κομνηνός ο Μέγας}})([[1143年]] - [[1180年]])
!rowspan=1 width="180"|名称
*[[アレクシオス2世コムネノス]]({{lang|el|Αλέξιος B' Κομνηνός}})([[1180年]] - [[1183年]])
!rowspan=1 width="100"|生年と誕生地
*[[アンドロニコス1世コムネノス]]({{lang|el|Ανδρόνικος Α' Κομνηνός}})([[1183年]] - [[1185年]])
!rowspan=1 width="100"|在位期間
!rowspan=1 width="190"|即位背景
!rowspan=1 width="140"|没年
|-
|align="center"|[[Image:Alexios I Komnenos.jpg|100px]]
|'''[[アレクシオス1世コムネノス]]''' <br> {{lang|el|Αλέξιος Α' Κομνηνός}}
|1048年
|1081年 - [[1118年]][[8月15日]]
|イサキオス1世コムネノスの甥。内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からはセルジューク朝やノルマン人に東西から侵攻を受け、内憂外患の状態にあった中で、反乱を起こしてニケフォロス3世ボタネイアテスを退位させ、自ら皇帝となった。
|1118年8月15日
|-
|align="center"|[[Image:Jean_II_Comnene.jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス2世コムネノス|ヨハネス2世コムネノス“カロ・ヨハネス”]]''' <br> (心美しきヨハネス)<br> {{lang|el|Ιωάννης Β' Κομνηνός o Καλος}}
|[[1087年]][[9月13日]]
|1118年8月15日 - [[1143年]][[4月8日]]
|アレクシオス1世コムネノスの子。1092年に共同皇帝となる。1143年、父の死により皇帝として即位。
|1143年4月8日
|-
|align="center"|[[Image:Manuelcomnenus.jpg|100px]]
|'''[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世コムネノス“メガス”]]''' <br> (偉大なる)<br> {{lang|el|Μανουήλ Α' Κομνηνός ο Μέγας}}
|1118年11月28日
|1143年4月8日 - [[1180年]][[9月24日]]
|ヨハネス2世コムネノスと皇后[[ピロシュカ|エイレーネー]]の四男。長兄と次兄が1142年に相次いで早世し、三兄が暗愚であるということもあって、1143年の父の死後、皇位継承者として選ばれた。
|1180年9月24日
|-
|align="center"|[[Image:Alexios_II_-_komnenos.jpg|100px]]
|'''[[アレクシオス2世コムネノス]]''' <br> {{lang|el|Αλέξιος B' Κομνηνός}}
|[[1169年]][[9月10日]]
|1180年 - [[1183年]]
|マヌエル1世コムネノスと2番目の皇后[[マリー・ダンティオケ|マリア]]の子。父が死去したために後を継いで即位することとなったが、12歳という幼年であったため、政務は生母のマリアが摂政となって取り仕切ることとなった。
|1183年10月
|-
|align="center"|[[Image:ByzantineBillonTrachy.jpg|100px]]
|'''[[アンドロニコス1世コムネノス]]''' <br> {{lang|el|Ανδρόνικος Α' Κομνηνός}}
|1123年
|1183年 - [[1185年]]
|マヌエル1世コムネノスの従弟。摂政マリアが夫のマヌエルと同じく親ラテン政策を採用したため、国民の間から不満が高まるようになった。この不満を背景にクーデターを起こしてマリアを殺害し、1183年にはアレクシオス2世の共同皇帝となった。そして共同皇帝となってから2ヶ月後にはアレクシオスを殺害し、正帝に即位した。
|1185年[[9月12日]]
|-
|}
 
== アンゲロス朝 ==
{{Main|アンゲロス王朝}}
{|class="wikitable"
*[[イサキオス2世アンゲロス]]({{lang|el|Ισαάκιος Β' Άγγελος}})([[1185年]] - [[1195年]])
|-
*[[アレクシオス3世アンゲロス]]({{lang|el|Αλέξιος Γ' Άγγελος}})([[1195年]] - [[1203年]])
!rowspan=1 width="100"|肖像
*[[イサキオス2世アンゲロス]] ([[1203年]]) (復位)
!rowspan=1 width="180"|名称
*[[アレクシオス4世アンゲロス]]({{lang|el|Αλέξιος Δ' Άγγελος}})([[1203年]] - [[1204年]])
!rowspan=1 width="100"|生年と誕生地
*[[アレクシオス5世ドゥーカス]]“ムルズフロス”({{lang|el|Αλέξιος Ε' Δούκας ο Μούρτζουφλος}})([[1204年]])
!rowspan=1 width="100"|在位期間
*[[コンスタンティノス・ラスカリス]]({{lang|el|Κωνσταντίνος Λάσκαρης}})([[1204年]])
!rowspan=1 width="190"|即位背景
!rowspan=1 width="140"|没年
|-
|align="center"|[[Image:IsaacIIAnge.jpg|100px]]
|'''[[イサキオス2世アンゲロス]]''' <br> {{lang|el|Ισαάκιος Β' Άγγελος}}
|1156年9月
|1185年 - [[1195年]]
|アンドロニコス・アンゲロスの子。アンドロニコス1世コムネノスの暴虐的な政治に遂に国民の怒りが爆発し、イサキオスを指導者に擁立した反乱軍によってアンドロニコスは虐殺された。そして、国民や貴族の支持を得たイサキオスが、皇帝として即位した
|[[1204年]][[1月28日]]
|-
|align="center"|[[Image:Alexios_III_-Angelos.jpg|100px]]
|'''[[アレクシオス3世アンゲロス]]''' <br> {{lang|el|Αλέξιος Γ' Άγγελος}}
|1156年
|1195年 - [[1203年]]
|イサキオス2世アンゲロスの弟。帝国の宰相・元帥に任じられて兄の治世を補佐したが、次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、皇帝として即位した。
|[[1211年]]
|-
|align="center"|[[Image:IsaacIIAnge.jpg|100px]]
|'''イサキオス2世アンゲロス'''(復位) <br> {{lang|el|Ισαάκιος Β' Άγγελος}}
|1156年9月
|1203年
|[[神聖ローマ帝国]]に亡命していた息子のアレクシオス4世が[[第4回十字軍]]に対して資金援助や東西教会の統一などを条件に味方に引き込み、コンスタンティノポリスに侵攻した。アレクシオス3世は皇位を追われて逃亡し、アレクシオス4世は幽閉された父を助け出して、父と共に共同皇帝として即位した。
|1204年1月28日
|-
|align="center"|[[Image:Alexius4.jpg|100px]]
|'''[[アレクシオス4世アンゲロス]]''' <br> {{lang|el|Αλέξιος Δ' Άγγελος}}
|1182年
|1203年 - [[1204年]]
|イサキオス2世アンゲロスとアンドロニコス1世コムネノスの娘エイレーネの子。幽閉されていた父を助け出して共同皇帝として即位した。
|1204年[[2月8日]]
|-
|align="center"|[[Image:Alexius V.JPG|100px]]
|'''[[アレクシオス5世ドゥーカス|アレクシオス5世ドゥーカス“ムルズフロス”]]''' <br> (濃い眉毛) <br> {{lang|el|Αλέξιος Ε' Δούκας ο Μούρτζουφλος}}
|?
|1204年
|アレクシオス3世の娘エウドキアの婿。イサキオス2世とアレクシオス4世の復位にあたって第4回十字軍に協力を求めた際に出した条件が過酷な献納金であったため、国民や貴族は両帝を見捨て、1204年1月にまずニコラオス・カナボスなる青年を皇帝候補に擁立した。ムルツフロスはこうした状況を影で操っていたのであるが、それに気付かなかったアレクシオス4世は彼を十字軍への支援要請の使者に立てる失敗を犯した。ムルツフロスは自ら帝位に登る事を決意し、同月末に即位した。
|1204年
|-
|align="center"|[[Image:Sin_foto.svg|100px]]
|'''[[コンスタンティノス・ラスカリス]]''' <br> {{lang|el|Κωνσταντίνος Λάσκαρης}}
|?
|1204年
|第4回十字軍にコンスタンティノポリスを攻撃され、アレクシオス5世ドゥーカスが逃亡したあと、首都防衛に活躍していたコンスタンティノスが皇帝に選出された。
|[[1211年]]頃?
|-
|}
1204年のコンスタンティノス・ラスカリスは、第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃の最中に皇帝に選出されたものの、コンスタンティノポリスが陥落してしまったために在位たった一晩で逃亡した。
このためコンスタンティノス・ラスカリスを皇帝として扱わない場合もある。また、コンスタンティノス・ラスカリスを「コンスタンティノス11世」とし、帝国最後の皇帝を「コンスタンティノス12世」とする場合もある。
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==関連項目==
*[[ローマ皇帝一覧]]
*[[フランク・ローマ皇帝]]
*[[神聖ローマ皇帝一覧]]
*[[ラテン皇帝一覧]]
*[[オスマン帝国の君主]]
 
 
{{Byzantine Empire topics}}
 
[[Category:東ローマ皇帝|*]]