「一国平均役」の版間の差分

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平安最末期の[[治承・寿永の乱]]において、[[平氏政権]]は諸国から[[兵粮米]]を賦課しているが、これも一国平均役として認識されていた。平氏政権はまた、[[墨俣川の戦い]]に備えて、[[伊勢国]]へ水夫と船の雑役を課しており、宣旨が国司へ発出されてから10数日の内に水夫と船の徴発が完了している。このことから、一国平均役の賦課に即応できる体制が、諸国において構築されていたと見られている。
 
[[鎌倉時代]]には、国司に代わって[[守護]]が国衙を掌握するケースが多くなり、[[鎌倉幕府]]による一国平均役の賦課も行われるようになった。[[室町時代]]になると、一国平均役は、守護の[[段銭]](たんせん)という形に変質していっ、守護領国形成に影響を与えた。
 
== 脚注 ==