「東ローマ帝国の皇帝一覧」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
371行目:
|-
|align="center"|[[Image:Solidus-Justinian II-reverse.JPG|100px]]
|'''ユスティニアノス2世“リノトメトス”''' (復位) <br> {{lang|el|Ιουστινιανός Β' ο Ρινότμητος}}
|668年?
|705年8月 – [[711年]]
850行目:
== ラスカリス朝(ニカイア帝国・東ローマの亡命政権) ==
{{Main|ニカイア帝国}}
{|class="wikitable"
*[[テオドロス1世ラスカリス]]({{lang|el|Θεόδωρος Α' Λάσκαρης}})([[1205年]] - [[1222年]]) (コンスタンティノス・ラスカリスの弟)
|-
*[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]({{lang|el|Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης}})([[1222年]] - [[1254年]])
!rowspan=1 width="100"|肖像
*[[テオドロス2世ラスカリス]]({{lang|el|Θεόδωρος Β' Λάσκαρης}})([[1254年]] - [[1258年]])
!rowspan=1 width="180"|名称
*[[ヨハネス4世ラスカリス]]({{lang|el|Ιωάννης Δ' Λάσκαρης}})([[1258年]] - [[1261年]])
!rowspan=1 width="100"|生年と誕生地
!rowspan=1 width="100"|在位期間
!rowspan=1 width="190"|即位背景
!rowspan=1 width="140"|没年
|-
|align="center"|[[Image:Theodore_I_Laskaris_miniature.jpg|100px]]
|'''[[テオドロス1世ラスカリス]]''' <br> {{lang|el|Θεόδωρος Α' Λάσκαρης}}
|[[1175年]]頃
|[[1205年]] - [[1222年]]
|コンスタンティノス・ラスカリスの弟。コンスタンティノポリス陥落に際し、その直前に即位した兄らと共に首都を脱出した。付き従った一団を率いて、[[ビテュニア]]に赴いて[[ニカイア]]に定住。兄から権力を譲られ皇帝を称した。
|1222年
|-
|align="center"|[[Image:John_III_Doukas_Vatatzes.jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]''' <br> {{lang|el|Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης}}
|[[1193年]]
|1222年 - [[1254年]][[11月3日]]
|軍人。テオドロス1世ラスカリスの後継者に選ばれ、皇女[[イレーネー・ラスカリナ]]と結婚。義父の死により即位。
|1254年11月3日
|-
|align="center"|[[Image:Theodore_II_Laskaris_miniature.jpg|100px]]
|'''[[テオドロス2世ラスカリス]]''' <br> {{lang|el|Θεόδωρος Β' Λάσκαρης}}
|[[1221年]]
|1254年11月3日 - [[1258年]][[8月18日]]
|ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスとイレーネー・ラスカリナの子。父の死により即位。
|1258年8月18日
|-
|align="center"|[[Image:John_IV_Laskaris_miniature.jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス4世ラスカリス]]''' <br> {{lang|el|Ιωάννης Δ' Λάσκαρης}}
|[[1250年]]
|1258年8月18日 - [[1261年]]12月25日
|テオドロス2世ラスカリスの子。父の死により即位。
|[[1305年]]
|-
|}
 
== パレオロゴス朝 ==
{{Main|パレオロゴス王朝}}
 
{|class="wikitable"
*[[ミカエル8世パレオロゴス]]({{lang|el|Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος}})([[1261年]] - [[1282年]]) (1258年からニカイア帝国の共同皇帝)
|-
*[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]({{lang|el|Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος}})([[1282年]] - [[1328年]])
!rowspan=1 width="100"|肖像
*[[ミカエル9世パレオロゴス]]({{lang|el|Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος}})([[1294年]] - [[1320年]]) (共同皇帝)
!rowspan=1 width="180"|名称
*[[アンドロニコス3世パレオロゴス]]({{lang|el|Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος}})([[1328年]] - [[1341年]])
!rowspan=1 width="100"|生年と誕生地
*[[ヨハネス5世パレオロゴス]]({{lang|el|Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος}})([[1341年]] - [[1376年]])
!rowspan=1 width="100"|在位期間
*[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]({{lang|el|Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός}})([[1347年]] - [[1354年]])
!rowspan=1 width="190"|即位背景
*[[マテオス・カンダクジノス|マタイオス・カンタクゼノス]]({{lang|el|Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός}})([[1353年]] - [[1357年]]) (共同皇帝)
!rowspan=1 width="140"|没年
*[[アンドロニコス4世パレオロゴス]]({{lang|el|Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος}}) ([[1376年]] - [[1379年]])
|-
*[[ヨハネス5世パレオロゴス]]([[1379年]] - [[1391年]]) (復位)
|align="center"|[[Image:Michael_VIII_Palaiologos_(head).jpg|100px]]
*[[ヨハネス7世パレオロゴス]]({{lang|el|Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος}})([[1390年]])
*|'''[[マヌミカエル28世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|ΜανουήλΜιχαήλ ΒΗ' Παλαιολόγος}})([[1391年]] - [[1425年]])
|[[1225年]]
*[[ヨハネス8世パレオロゴス]]({{lang|el|Ιωάννης Η' Παλαιολόγος}})([[1425年]] - [[1448年]])
|1261年12月25日 - [[1282年]][[12月11日]]
*[[コンスタンティノス11世ドラガセス]]({{lang|el|Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης}})([[1448年]] - [[1453年]]) (最後の皇帝)
|アンドロニコス・ドゥーカス・コムネノス・パレオロゴスとアレクシオス3世アンゲロスの孫娘テオドラ・アンゲリナ・パレオロギナの子。[[1259年]]からニカイア帝国の共同皇帝となり帝国を事実上乗っ取る。1261年、最後のラテン皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]からコンスタンティノポリスを奪回。息子アンドロニコスを共同統治者として、皇帝に即位。
|1282年12月11日
|-
|align="center"|[[Image:Andronikos_II_Palaiologos.jpg|100px]]
|'''[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος ο Γέρος}}
|[[1259年]][[3月25日]]
|1282年12月11日 - [[1328年]][[5月24日]]
|ミカエル8世パレオロゴスの長男。父の死により即位。
|[[1332年]][[2月13日]]
|-
|align="center"|[[Image:Michael IX Palaiologos.jpg|100px]]
|'''[[ミカエル9世パレオロゴス]]''' (共同皇帝)<br> {{lang|el|Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος}}
|[[1277年]]
|[[1294年]] - [[1320年]]
|アンドロニコス2世パレオロゴスの子。1294年、父から後継者と目されていたため、共同皇帝に指名された。
|1320年
|-
|align="center"|[[Image:Andronikos III Palaiologos.jpg|100px]]
|'''[[アンドロニコス3世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος ο Νέος}}
|[[1297年]][[3月25日]]
|1328年5月24日 - [[1341年]][[6月15日]]
|ミカエル9世パレオロゴスと皇后[[リタ (東ローマ皇后)|マリア]]の子。素行の悪さから祖父アンドロニコス2世によって帝位継承権を剥奪されると反旗を翻し、7年にわたる内乱の末に祖父を退位に追い込んで皇帝に即位した。
|1341年6月15日
|-
|align="center"|[[Image:John V Palaiologos.jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス5世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος}}
|[[1332年]][[6月18日]]
|1341年6月15日 - [[1376年]][[8月12日]]
|アンドロニコス3世パレオロゴスの長男。父の死により即位。
|[[1391年]][[2月16日]]
|-
|align="center"|[[Image:Johannes VI. Cantacuzenos (cropped).jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス6世カンタクゼノス]]''' <br> {{lang|el|Ιωάννης Στ' Καντακουζηνός}}
|[[1295年]]
|[[1347年]][[2月8日]] - [[1354年]][[12月4日]]
|ミカエル・カンタクゼノスの息子とミカエル8世パレオロゴスの姉マリア-マルサ・パレオロギナの孫娘テオドラ・パレオロギナ・カンタクゼネの子。摂政権を巡る争いで起きた内乱で[[オスマン帝国]]皇帝[[オルハン]]の支援を得て勝利し、ヨハネス5世パレオロゴスとの共同統治という形式で正帝として即位。
|[[1383年]]6月15日
|-
|align="center"|[[Image:Sin_foto.svg|100px]]
|'''[[マテオス・カンダクジノス|マタイオス・カンタクゼノス]]''' (共同皇帝)<br> {{lang|el|Ματθαίος Ασάνης Καντακουζηνός}}
|[[1325年]]
|[[1353年]] - [[1357年]]
|ヨハネス6世カンタクゼノスとミカエル8世パレオロゴスの孫娘イリニ・アサニナ・カンダクジニの長子。父によって共同皇帝・後継者に擁立された。
|1383年6月
|-
|align="center"|[[Image:Andronikos_IV_Palaiologos.jpg|100px]]
|'''[[アンドロニコス4世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Ανδρόνικος Δ' Παλαιολόγος}}
|[[1348年]][[4月11日]]
|1376年8月12日 - [[1379年]][[7月1日]]
|ヨハネス5世パレオロゴスとヨハネス6世カンタクゼノスの娘ヘレネー・カンタクゼネの長男。[[1373年]]にオスマン帝国皇帝[[ムラト1世]]の長男[[サヴジ]]と手を組んだ反乱に失敗し帝位継承から外されるも、1376年にムラト1世の支持を得て起こした再度の反乱でコンスタンティノポリスに皇帝として入城し父と二人の弟を投獄して全権を掌握した。
|[[1385年]][[6月28日]]
|-
|align="center"|[[Image:John V Palaiologos.jpg|100px]]
|'''ヨハネス5世パレオロゴス''' (復位)<br> {{lang|el|Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος}}
|1332年6月18日
|1379年7月1日 - [[1390年]][[4月14日]]
|[[ヴェネツィア共和国]]とムラト1世の援助を受け復位。
|1391年2月16日
|-
|align="center"|[[Image:John VII Palaiologos.gif|100px]]
|'''[[ヨハネス7世パレオロゴス]]''' (対立皇帝)<br> {{lang|el|Ιωάννης Ζ' Παλαιολόγος}}
|[[1370年]]
|1390年4月14日 - [[9月17日]]
|アンドロニコス4世パレオロゴスと[[第二次ブルガリア帝国]]皇女[[キラツァ・マリア]]の子。オスマン帝国皇帝[[バヤズィト1世]]と[[ジェノヴァ共和国]]の支援を受けて祖父を追放して皇帝に即位。
|[[1408年]][[9月22日]]
|-
|align="center"|[[Image:John V Palaiologos.jpg|100px]]
|'''ヨハネス5世パレオロゴス''' (復位)<br> {{lang|el|Ιωάννης Ε' Παλαιολόγος}}
|1332年6月18日
|1390年9月17日 - [[1391年]][[2月16日]]
|次男マヌエル2世の救援とオスマン帝国の支援によって反撃に成功し、復位した。
|1391年2月16日
|-
|align="center"|[[Image:Manuel_II_Paleologus.jpg|100px]]
|'''[[マヌエル2世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Μανουήλ Β' Παλαιολόγος}}
|[[1350年]][[6月27日]]
|1391年2月16日 - [[1425年]][[7月21日]]
|ヨハネス5世とヘレネー・カンタクゼネの次男。父の死により即位。
|1425年7月21日
|-
|align="center"|[[Image:Palaio.jpg|100px]]
|'''[[ヨハネス8世パレオロゴス]]''' <br> {{lang|el|Ιωάννης Η' Παλαιολόγος}}
|[[1392年]][[12月18日]]
|1425年7月21日 - [[1448年]][[10月31日]]
|マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの長男。父の死により即位。
|1448年10月31日
|-
|align="center"|[[Image:ConstantinoXI_(cropped).jpg|100px]]
|'''[[コンスタンティノス11世|コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス]]''' <br> {{lang|el|Κωνσταντίνος ΙΑ' Παλαιολόγος Δραγάτσης}}
|[[1405年]][[2月8日]]
|[[1449年]][[1月6日]] - [[1453年]][[5月29日]] <br> (最後の皇帝)
|マヌエル2世とイェレナ・ドラガシュの四男(五男)。兄の死後、弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、最終的にコンスタンティノスが[[モレアス専制公領]]の首都[[ミストラス]]で即位。
|1453年5月29日
|-
|}
 
'''東ローマ帝国滅亡'''