「SENDAI光のページェント」の版間の差分

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== 沿革 ==
[[第二次世界大戦]]の際の[[仙台空襲]]で焼け野原となった仙台市は、[[杜の都]]を象徴する屋敷林を失って、乾燥する冬季に特に砂埃が舞い、[[戦後復興期]]に「仙台[[砂漠]]」と呼ばれていた。そのため、[[道路]]の[[舗装]]や[[街路樹]]の[[植林]]によりこれを改善した。しかし、[[1970年代]]から本格普及した[[スパイクタイヤ]]により、冬季に[[粉塵]]が舞って再び「仙台砂漠」と呼ばれるようになった。[[1985年]]([[昭和]]60年)に宮城県が[[スパイクタイヤ規制条例]]を施行して規制の動きが始まったが、未だ「仙台砂漠」の状態だった[[1986年]](昭和61年)[[2月]]、杜の都の新たな[[象徴]]の1つとなっていた[[定禅寺通]]のケヤキ並木が粉塵で汚れてしまっていることを憂いた市民が、並木に電飾をすることを思いつき、共感した市民たちの協力を得て約1年かけて準備し、SENDAI光のページェントは生まれた<ref>[http://flat.kahoku.co.jp/u/blog-seibun/EYgUF0KzeVL8Whjrpmi1/ 光のページェントと夢みる力](河北新報 Cafe Vita 2009年12月30日)</ref><ref>[http://webronza.asahi.com/synodos/2013061200001.html メディア全体で「つながる」ことの大切さが問われている 河北新報編集委員・寺島英弥氏インタビュー](朝日新聞「WEBRONZA」2013年6月12日)</ref>。
 
光のページェントは、企業からの寄付と市民からの[[募金]]によって支えられているため、仙台の経済状況に呼応するようにイベント費用の中心をなす総電球個数が増減している。そのため、総電球個数は仙台の景気や消費動向の物差とも見られている。ただし、近年は観光客数の増大に伴う警備の出費も大きいため、総電球個数そのものよりも微分した変化量が有益な指標である。