「愛新覚羅奕訢」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{記事名の制約|愛新覚羅奕訢}}
[[Image: PrinceGong1.jpg|thumb|1860年11月2日 北京にて正装の恭親王奕訢]]
[[Image:Prince Gong.JPG|thumb|right|恭親王奕訢]]
'''愛新覚羅 奕訢'''(あいしんかくら えききん、[[1833年]][[1月11日]] - [[1898年]][[5月29日]])は、[[清]]の皇族。[[道光帝]]の第6子。恭親王。母は[[孝静成皇后]]。兄に[[咸豊帝]]、[[惇親王]][[愛新覚羅奕ソウ|奕誴]]、弟に[[醇親王]][[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]。妃は[[桂良]]の娘ほか。子に[[愛新覚羅載澂|載澂]]、[[愛新覚羅載エイ|載瀅]]。爵位は[[恭親王]]。[[諡]]は忠。
== 人物 ==
幼い頃から聡明で、刀槍、詩歌と文武に優れ、道光帝の生前、後継者の有力候補と見られていた。しかし、道光帝は第4子の奕詝の方が優しさがあるとして後継者に定めたため、[[1850年]]に奕詝が[[咸豊帝]]として即位し、奕訢は恭親王に封ぜられた。咸豊帝の治世には[[軍機大臣]]、都統、内大臣などを歴任するが、帝に避けられることもあった。[[アロー戦争]]中の[[1860年]]、[[イギリス]]軍が[[北京市|北京]]に迫ると、[[北京条約]]の調印、ついで[[総理各国事務衙門]]の設立に携わった。彼自身は、心情的には排外主義者であったとされるが、屈辱的な不平等条約の締結当事者となってしまったため、洋鬼子(西洋の化け物)とつるむ六男坊を意味する「'''鬼子六'''」というあだ名で同胞から罵られた。現代の中国語でも、「鬼子六」とは「外国の力を笠に着て、国内で自分の勢力を広げようとする売国奴的政治家」の代名詞であるというから、いかにひどいあだ名であるかがわかる。
 
== 人物生涯 ==
[[1861年]]の咸豊帝の死後、[[西太后]]・[[東太后]]と結んで[[クーデター]]を起こし、怡親王[[愛新覚羅載垣|載垣]]、鄭親王[[愛新覚羅端華|端華]]、[[粛順]]らを除去し、宮廷内の権力を握った([[辛酉政変]])。奕訢は議政王として[[軍機処]]の大臣を兼ね、[[李鴻章]]・[[曽国藩]]などの[[漢族]]官僚を起用して[[洋務運動]]を支え、'''同治中興'''と呼ばれる清朝の国勢の一時的復興を実現した。[[1865年]]に西太后の勘気に触れ失脚するが、間もなく復帰。[[1884年]]、[[清仏戦争]]が起こると敗戦の責任を被され、西太后によって罷免された。[[1894年]][[日清戦争]]の敗戦後、総理各国事務衙門と総理海軍を命ぜられて外交と軍務を統括し、さらに軍機大臣に復職して国難に当たったが、1898年に病死した。
幼い頃から聡明で、刀槍、詩歌と文武に優れ、道光帝の生前、後継者の有力候補と見られていた。しかし、道光帝は第4子の奕詝の方が優しさがあるとして後継者に定めたため、[[1850年]]に奕詝が咸豊帝として即位し、奕訢は恭親王に封ぜられた。咸豊帝の治世の[[1853年]]には[[軍機大臣]]となるが、[[1855年]]に母が危篤になると兄に皇太后の称号を授けるよう懇願したため、兄の不興を被り軍機大臣を罷免された。[[1857年]]に都統に復帰、内大臣などを歴任するが、兄の存命中に重用されることはなかった<ref>並木、P79、加藤、P60 - P74。</ref>。
 
幼い頃から聡明で、刀槍、詩歌と文武に優れ、道光帝の生前、後継者の有力候補と見られていた。しかし、道光帝は第4子の奕詝の方が優しさがあるとして後継者に定めたため、[[1850年]]に奕詝が[[咸豊帝]]として即位し、奕訢は恭親王に封ぜられた。咸豊帝の治世には[[軍機大臣]]、都統、内大臣などを歴任するが、帝に避けられることもあった。[[アロー戦争]]中の[[1860年]]、[[イギリス帝国|イギリス]]軍が[[北京市|北京]]に迫ると、北京から[[承徳市|熱河]]へ避難した兄から戦後処理を命じられ、[[北京条約]]の調印、ついで[[総理各国事務衙門]]の設立に携わった。奕訢自身は心情的には排外主義者であったとされるが、屈辱的な[[不平等条約]]の締結当事者となってしまったため、洋鬼子(西洋の化け物)とつるむ六男坊を意味する「'''鬼子六'''」というあだ名で同胞から罵られた。現代の中国語でも、「鬼子六」とは「外国の力を笠に着て、国内で自分の勢力を広げようとする売国奴的政治家」の代名詞であるというから、いかにひどいあだ名であるかがわかる<ref>並木、P70 - P74、P185 - P186、加藤、P85 - P93、P100 - P103。</ref>
北京の観光地の一つとなっている「恭王府」は、かつての恭親王の邸宅である。
 
[[1861年]]の咸豊帝の死後、[[西太后]]・[[東太后]]や弟の醇親王奕譞と結んで[[クーデター]]を起こし、[[怡親王]][[愛新覚羅載垣|載垣]]、[[鄭親王]][[愛新覚羅端華|端華]]、[[粛順]]らを除去し、宮廷内の権力を握った([[辛酉政変]])。奕訢は議政王として[[軍機処]]の大臣を兼ねに復帰し甥の[[李鴻章同治帝]]の摂政として君臨した。また[[曽国藩]]・[[李鴻章]]などの[[漢族]]官僚を起用して[[洋務運動]]を支え、'''同治中興'''と呼ばれる清朝の国勢の一時的復興を実現した。[[1865年]]に西太后の勘気に触れ失脚するが、間もなく復帰。[[1884年]]、[[清仏戦争]]が起こると敗戦の責任を被され、西太后によって罷免された。[[1894年]][[日清戦争]]の敗戦後、総理各国事務衙門と総理海軍を命ぜられて外交と軍務を統括し、さらに軍機大臣に復職して国難に当たったが、1898年に病死した。
 
しかしその立場を脅かされることが度々あり、[[1865年]]に讒言で西太后の勘気に触れ、議政王の地位を剥奪され失脚するが、間もなく復帰。[[1873年]]に同治帝が[[円明園]]の修復工事を発案すると反対したため翌[[1874年]]に爵位を降格させられかけたが、西太后の取り成しで撤回された。[[1875年]]に同治帝が崩御し甥の[[光緒帝]](奕譞の子)が即位した時も政権に留まったが、[[1884年]]に[[清仏戦争]]が起こると緒戦の敗北の責任を被され、西太后によって罷免された<ref>並木、P109 - P115、P232 - P235、加藤、P113 - P122、P129 - P137、P169 - P171、P182 - P188。</ref>。
 
[[1894年]]に[[日清戦争]]が勃発すると総理衙門と総理海軍を命ぜられて外交と軍務を統括し、軍機大臣に復職して国難に当たったが成す術も無く敗戦を迎え、4年後の1898年に65歳で病死した。変法運動に傾いていた光緒帝を諫め保守派と革新派の調停に当たっていたが、その死により両派の対立は表面化し[[戊戌の変法]]、[[戊戌の政変]]が引き起こされていった<ref>並木、P240 - P241、加藤、P208、P215 - P216。</ref>。
 
爵位は孫の[[愛新覚羅溥偉|溥偉]]が継承した。北京の観光地の1つとなっている「恭王府」は、かつての恭親王の邸宅である。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[並木頼寿]]・[[井上裕正]]『世界の歴史19 中華帝国の危機』[[中央公論新社|中央公論社]]、1997年。
* [[加藤徹]]『西太后 <small>大清帝国最後の光芒</small>』[[中公新書]]、2005年。
 
{{DEFAULTSORT:あいしんかくら えききん}}
16 ⟶ 30行目:
[[Category:1833年生]]
[[Category:1898年没]]
{{Chinese-history-stub}}