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ミール・ジュムラーの帰順もまた、このとき家族や自身の軍隊とともに立ち退くことを認められ、アウラングゼーブとともに王国を去った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。アウラングゼーブとミール・ジュムラーはその道中[[ビジャープル王国]]を通過したが、その際に同国で最も大規模な城塞[[ビーダル]]を落として手中に入れ([[ビーダル包囲戦]])、ダウラターバードへと戻った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
 
[[フランス]]の旅行家[[フランソワ・ベルニエ]]によると、アウラングゼーブとミール・ジュムラーの二人はダウラターバードで固い友情に結ばれ、アウラングゼーブは一日に二度ミール・ジュムラーの顔を見ずには生きていけず、ミール・ジュムラーもアウラングゼーブにまた会わずには一日を過ごせなかったのだという<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。ベルニエはまた、ミール・ジュムラーとの結びつきが、「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
一日を過ごせなかったのだという<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。ベルニエはまた、ミール・ジュムラーとの結びつきが、
「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
 
そののち、ミール・ジュムラーはシャー・ジャハーンに面会するため、妻子ら家族とともにアウラングゼーブのもとを離れ、多数の贈答品を携帯してアーグラへ赴いた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。シャー・ジャハーンに面会した際、ミール・ジュムラーはゴールコンダの豊かさを証明するため巨大なダイヤモンドである[[コーヒ・ヌール]]を贈呈し、岩山のカンダハールよりはデカン方面へと兵を進め、[[コモリン岬]]まで制圧するよう進言した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.43-44</ref>。シャー・ジャハーンはこの進言を受け入れ、ミール・ジュムラーの指揮の下で大軍を送ることにした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.44</ref>。
 
だがしかし、ここで皇帝の長男ダーラー・シコーがアウラングゼーブに兵力を注ぐことになると反対し、この企てを止めようとした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。その結果、アウラングゼーブはデカン総督としてダウラターバードにとどまり戦争に一切関与しない、ミール・ジュムラーを総大将に全権を持つこと、その忠誠を保証するために彼の家族をアーグラに留めおくことが条件とされた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。
ミール・ジュムラーは仕方なくこの条件を受け入れてデカンへと進み、ビジャープル王国の領土へと入り、[[カリヤーン]](カリヤーニー)の城塞を包囲した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。
 
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ミール・ジュムラーはカリヤーニーをいまだ包囲し続けていたが、アウラングゼーブはそこに長男スルターンを送り、ダウラターバードに来て合流するように説得を行った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.50</ref>。だが、ミール・ジュムラーはアーグラで家族が人質にとられているため、合流して援助することも、味方だと公言することもできないと言い、スルターンは仕方なくダウラターバードへと戻った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.50-51</ref>。それでも、アウラングゼーブはめげずに今度は次男ムアッザムを送り、ミール・ジュムラーの説得に成功した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.51</ref>。
 
その後すぐ、ミール・ジュムラーは籠城軍に更なる攻撃をかけて和議に応じさせ、ムアッザムとともにアウラングゼーブのいるダウラターバードへと向かった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.51</ref>。アウラングゼーブの喜びようは半端な激しく、ミール・ジュムラーを「バーバー」(父上)、「バーバージー」(父君)とさえ呼んだ。また、アウラングゼーブはその家族が殺害されぬよう一計を案じて、ミール・ジュムラーを拘束したように見せかけてともに行軍することを提案し、ミール・ジュムラーもこれを了承した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.52-53</ref>。
 
アウラングゼーブはミール・ジュムラーとの合流に成功してダウラターバードを出たのち、ムラード・バフシュにを与えることで同盟を結んだ。ムラード・バフシュはグジャラートのアフマダーバードを出て、アウラングゼーブと合流し、兄ダーラー・シコーに対抗しうるかなりの大軍団が出来た。
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追撃に向かおうとしていたが完全にこれを部下に任せ、自身はシャー・シュジャーの討伐に向かった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.114 </ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.232</ref>。
 
そして、[[1659年]][[1月5日]]、アウラングゼーブはシャー・シュジャーとアラーハーバード付近の[[カジュハ]]でとの戦いに臨んだ([[カジュハの戦い]])<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.114</ref>。戦闘は最初の方はシャー・シュジャーの優勢で、またアウラングゼーブの後陣を講和したはずのダーラー・シコー側の武将[[ジャスワント・シング]]が襲撃するなどしたため、アウラングゼーブの軍は混乱した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.115-116</ref>。
 
しかし、ミール・ジュムラーが何とかアウラングゼーブに冷静さを取り戻させたこと、そしてアウラングゼーブの強運さによってによって、シャー・シュジャーは戦いに敗れてしまった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.116-117</ref>。シャー・シュジャーは一命を取り留めたが、軍は壊走した。この日の戦いもアウラングゼーブの勝利に終わった。
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===厳格な宗教政策===
[[File:The Emperor Aurangzeb Alamgir.jpg|thumb|right |アウラングゼーブ]]
アウラングゼーブの治世、父帝シャー・ジャヤハーンの治世から強まった宗教不寛容がさらに強まり、ムスリム以外の異教徒が弾圧され、とりわけヒンドゥー教徒にその傾向が強まった。シャー・ジャハーンとえど、特別な事情がない限りは大幅な宗教寛容をとってきた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.233</ref>。アウラングゼーブ自身、祖母や曾祖母はラージプートの女性でヒンドゥー教徒であり、[[ティムール]]の血も随分と薄まっていたが、彼は過去の皇帝とは違って異常なまでにイスラーム教に傾倒していた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.233</ref>。
 
即位の翌年、[[1659年]]にアウラングゼーブはヴァーラーナシーの行政官に命じて、同地に新しく建てられたヒンドゥー寺院を破壊させた。また、新たなヒンドゥー寺院の建築を禁じ、10年から12年以内に建てられた新しい寺院を取り壊すよう命じた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.235</ref>。このとき同時に、ムスリムには禁忌食物の接取や飲酒、博打、麻薬などの娯楽行為を禁じていることから、ムスリムにもイスラーム教の教理に反することを認めておらず、双方に厳しい態度をとっていたことがわかる<ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.271</ref>。
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その他にも、ムスリムとヒンドゥーとのあいだいに関税や巡礼税(聖廟や祭礼に行く際に課される税)などで差を設けたり、ヒンドゥーの祭りを祝うことを禁じ、ヒンドゥー教徒が馬や象、輿に乗ること、武器を携行することも禁じた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。役人の採用ではムスリムを優先したり、ヒあるいはヒンドゥーをムスリムに変えたりして、ムスリムとヒンドゥーの比率が50パーセントに固定された<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。
 
アウラングゼーブはヒンドゥー教徒に過酷な弾圧を加えることで、帝国の大多数を占めるヒンドゥー教徒をイスラーム教に改宗させようとし、またイスラーム教を厳格に遵守させ、帝国を真のイスラーム国家に導こうとした。だが、近藤治は、「ムスリムが少なかったムガル朝インドの政治風土では、結局、分離主義的な方向に向かわざるを得なかった」と述べている。アンドレ・クローもまた「イスラーム教ですらかつて体験したことのない教条主義の対象となったため、皇帝は逆に孤立を深めた」、と主張している<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref>。
 
===マラーター王国の創始とジズヤの復活===
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一方、帝国内はアウラングゼーブの宗教弾圧により宗派間で分裂状態に陥りつつあったが、[[1679年]][[4月2日]]にアウラングゼーブは[[ジズヤ]](人頭税)の再賦課令に裁可を下し、復活した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248</ref>。ジズヤはアクバルの治世以来100年以上廃止されてきたが、アウラングゼーブは自身から離れつつあるムスリムの結束を強め、その熱狂的支持を得ようとする算段があったのだ、と近藤治は主張する。
 
さて、ジズヤはムスリム以外の異教徒に課せられる直接税であったが、富裕層、中間層、貧困層に分けて課された。アウラングゼーブの場合、ジズヤの年額は富裕層13ルピー、中間層6・5ルピー、貧困層3・5ルピーだった。ジズヤはまた逆進的な課税方式をとったため、富裕層や中間層には軽微なものであったが、貧者の負担する税額は極端に高くなり、それは当時の都市在住の未熟練の1ヶ月分の手取りに相当する額であった。とはいえ、女性、子供、老人、心身障害者、極貧者には課せられなかったため、ジズヤは徹底した調査を必要とし、課税する側にも多大な負担がかかり、その税収を目的とするよりはむしろ、イスラームの正統主義を掲げる君主がシャリーアに基づいて課すものであった。
 
ジズヤの復活には宮廷内で賛否が分かれ、帝国の盟友であるラージプートの有力者らからは陳情を求める形で発令を見合わせるよう上奏があった。だが、アウラングゼーブはウラマーらの建議を受け、その意見に従う形でジズヤを復活した。妥協案として、帝国軍に軍籍のある者はジズヤを免除されるという条項を付加し、これによりラージプートとの同盟は依然と同様に維持されると考えた。