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唐棣色 (会話 | 投稿記録)
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Hesolla (会話 | 投稿記録)
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| 死没 = [[文明 (日本)|文明]]2年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1470年]][[2月21日]])
| 改名 = 貴久→忠国
| 別名 = 虎寿丸(幼名)、又三郎([[通称]]
| 戒名諡号 = 大岳玄誉
| 神号 = 小城山茂栄彦命
| 戒名 = 大岳玄誉大禅定門
| 霊名 =
| 墓所 = [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]<br>鹿児島県[[南さつま市]]坊津
| 官位 = [[修理職|修理大夫]]、[[陸奥守]]
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| 主君 =
| 氏族 = [[島津氏]]
| 父母 = 父:[[島津久豊]]、母:寿山夫人([[伊東祐安 (室町時代)|伊東祐安]]の娘
| 兄弟 = '''忠国'''、[[島津用久|用久]]、[[島津季久|季久]]
| 妻 = 心萃夫人([[新納忠臣]]の娘、[[島津勝久 (伊作家)|島津勝久]]の娘
| 子 = [[島津友久|友久]]、'''[[島津立久|立久]]'''、[[島津久逸|久逸]]、[[桂勝久]]<br>娘([[伊集院煕久]]室)
| 特記事項 =
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== 経歴 ==
応永10年(1403年)に日向国[[高城 (穆佐院)|穆佐院高城]](穆佐城)にて誕生、応永32年([[1425年]])、父が没したため家督を継ぐ。応永34年([[1427年]])に日向の[[伊東祐立]]と和睦し、[[永享]]2年([[1430年]])に[[総州家 (島津氏)|総州家]]の[[島津久林]]を討ち取って島津氏を統一させたが、永享4年([[1432年]])に領国支配が危機に瀕するほどの[[国一揆]]が起こり、弟の[[島津用久|好久]](用久)を守護代に任じてその処理をさせた。しかし、好久が力を持ちすぎたことにより兄弟間の争いが始まったが、忠国・好久の争いは謀反を企てた6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]の弟[[義昭|大覚寺義昭]]を幕命により[[嘉吉]]元年([[1441年]])[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]に自害させたのを機に忠国が有利となって終息した。和解後、好久に分家の[[薩州家]]を立てさせた。
 
[[宝徳]]2年([[1450年]])、かつて[[伊集院氏]]領であった石谷(現在の[[鹿児島市]][[石谷町 (鹿児島市)|石谷町]])が忠国から町田高久に与えられたことにより高久を一族の有力者であった[[伊集院煕久]]が一宇治城にて殺害した事件を発端として煕久を[[肥後国|肥後]]へ追放し居城の[[一宇治城]]を没収、改修し国内支配を安定させた。亡くなるまで家督を保ち続けたが、[[長禄]]3年([[1459年]])から嫡男の立久が忠国に代わって活動したため、薩摩南部に移り住んで文明2年(1470年)に没した。[[享年]]68。晩年は[[琉球]]への渡海を画策していたとされる。