「紫川事件」の版間の差分

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'''紫川事件'''(むらさきがわじけん)とは、[[昭和]]38年([[1963年]])12月8日夜、[[福岡県]][[北九州市]]の[[紫川]]河川敷で、[[暴力団]]・三代目[[山口組]]系[[地道組]][[安藤組]]組員2人が、北九州の暴力団・[[工藤組]](後の[[工藤會]])組員の[[坂下繁貴]]ら数人に撲殺された[[暴力団]][[抗争事件]]。この事件を切っ掛けにして、北九州市で、[[市民]]や[[福岡県警]]による「暴力追放キャンペーン」が展開された。
 
==経緯==
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梶原組は、[[1963年]](昭和38年)5月に三代目[[山口組]][[山口組若頭|若頭]]・[[地道行雄]]の傘下に入る。地道は、同時に安藤組を傘下に収め、7月には北九州市の[[長畠組]]も傘下に収めた。これを契機に梶原は、地道を通じて[[田岡一雄]]に北九州市での[[力道山]]の[[プロレス]]興行実施を依頼(田岡は[[日本プロレス協会]]副会長だった)。田岡は直ぐに了承したが、これを知った草野が、梶原に対抗して北九州市で[[北原謙二]]の公演開催を企図する。
 
同年9月10日、山口組[[菅谷組]]・[[菅谷政雄]]組長が、北九州市[[小倉区]]に[[芦原興行社]]を設立。芦原興行社の[[事務所]]が、北九州市の暴力団・[[工藤組]]幹部・[[前田国政]]の経営する[[前田プロダクション]]事務所の真向かいにあったことから、工藤組は地道に抗議。工藤組からの抗議に地道は応じ、芦原興行社を北九州市から撤収させることを約束した。直ぐに地道は菅谷を地道組事務所に呼び出し、菅谷政雄に「芦原興行社の看板を下ろすように」と指示。両者が口論となったものの、最終的には菅谷が代紋入りの看板を下ろすという地道の指示を額面通りに行っただけで、興行社の事務所は機能したまま[[キャバレー]]などでのショーを[[プロデュース]]することが続いた。このため工藤組組員らが、芦原興行社に乗り込み芦原章男と睨み合いになったりしている。
 
草野組の企図した「北原謙二ショー」は10月1日に開催されたが、閉演後にショーの[[警備]]要員として応援に来ていた[[石松組]]組員が、梶原組組員に銃撃され重傷を負う。[[福岡県警]]は、梶原組と草野組の暴力団抗争に備えて、700人の[[警察官]]を動員して警戒に当たった。山口組は組員200人を北九州市に派遣し、その際やって来た菅谷組若頭・[[上田亨]]と前田の間で話し合いが持たれたものの決裂。10月21日には梶原組が、山口組の応援を受けて力道山のプロレス興行を開催している。
 
== 抗争事件 ==