「広瀬久忠」の版間の差分

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[[山梨県]][[東山梨郡]][[七里村]](現在・[[甲州市]])に、父「[[広瀬久政|久政]]」、母「さと」の長男として生まれる。<ref>広瀬家は県内有数の旧家であり、同家資料は[[山梨県立博物館]]に収蔵。</ref>次男の勝丸は東山梨郡[[錦村]](現在・[[笛吹市]][[御坂町]])の網野家の養子となり<ref>勝丸の子で久忠の甥には、歴史学者の[[網野善彦]]がいる。</ref>、三男の繁は[[甲府市]]山田(ようだ)町の商家[[名取忠愛]]の婿養子として[[名取忠彦]]となり、昭和22年1月4日には[[山梨中央銀行]]頭取に就任し山梨県政にも影響力を持つこととなった。
 
山梨県立[[日川中学校]]、[[第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を大正3年37月に卒業、高等[[文官高等試験]]に合格し[[内務省 (日本)|内務省]]に入省する。し、[[福井千葉県]]および[[東京府]]の内務部長属を振出しに大正6年5月に[[東京市]][[副市町村長|助役岐阜県]]警視同7年10月に同理事官、同8年8月に[[三重県知事一覧|三重県知事警視庁]]理事官同12年3月に警視庁警視、同年10月に[[埼玉滋賀知事一覧|埼玉県知事]]などを経て警察部長同13年5月に内務省土木局長、社会局書記官、同年12月に[[内務次官福井県]]内務部長厚生次同14年10月に内務省復興局書記を歴任する。これらと並行して昭和4年5月に[[対満事務局東京市]]および助役、同5年8月に[[企画院東京府]]の[[参与]]もめた部長となる
その後、同6年12月に[[三重県知事一覧|三重県知事]]、同8年6月に[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]となり、同9年7月に内務省土木局長、同11年3月に社会局長官、同11年6月に[[内務次官]]、同13年1月に厚生次官を務めている。なお、これらと並行して[[対満事務局]]および[[企画院]]の[[参与]]も務めた。
 
[[1939年]](昭和14年)、)1月の[[平沼内閣]]においては[[厚生省|厚生大臣]]<ref>広瀬久忠の厚生大臣就任は、山梨県出身の政治家では者による初の大臣就任事例となった。</ref>を歴任する。となり、翌[[1940年]](昭和15年)には)1月の[[米内内閣]]においては[[内閣法制局長官]]を歴任し、となり同年5月[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選されている。また、同16年12月に[[産業設備営団]]副総裁、同17年11月には同営団の総裁に就任している
 
[[太平洋戦争]]末期の[[1944年]](昭和19年)、)7月の[[小磯内閣]]においては再度の厚生大臣を務め、、翌[[1945年]](昭和20年)2月に[[国務大臣]]兼[[内閣書記官長]]に転任する。終戦直後[[東京都知事一覧|東京都長官]]兼同20年8月に[[地方総監府#地方総監|関東信越地方総監]]に就任し兼[[東京都知事一覧|東京都長官]]となったが、[[1946年]](昭和21年)8月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[公職追放]]処分を受けた(昭和21年8月~昭和26年8月)となっている
 
追放解除後の[[1953年]](昭和28年)には、[[第3回参議院議員通常選挙]]に[[山梨県選挙区]]から無所属で立候補して当選、政界に復帰した。その後[[緑風会]]を経て[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]へ移り、[[1959年]](昭和34年)の[[第5回参議院議員通常選挙]]では落選したが、[[1965年]](昭和40年)の[[第7回参議院議員通常選挙]]で当選した。