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[[File:Sengge Rinchen.jpg|thumb|right|センゲリンチン]]
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'''センゲリンチン'''('''僧格林沁'''、''Sengge Rinchen''、嘉慶16年([[1811年]])<ref>生年に関しては没後に鄒鍾が書いた「済南忠親王廟碑」(『志遠堂文書』巻4)に15歳でホルチン王位を継いだと記されていることによる(王位継承の事実に関しては当時の[[道光帝]]の[[実録]]にも記述がある)。だが、同碑文には王位継承時に既に没していた筈の庄敬和碩公主の意向で後継者に選ばれたと記されており、肝心の王位継承に関する事情に誤りがある以上、この生年を直ちに信用することは出来ないと言う考え方もある(山下、1994)。</ref> - [[同治]]4年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]([[1865年]]
センゲとは[[チベット語]]で「獅子」、リンチンとはチベット語で「宝」を意味する。[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]の[[ホルチン左翼後旗]]の人。[[ボルジギン氏]]で、『蒙古世系』によると[[チンギス・カン]]の次弟[[ジョチ・カサル]]の26代の子孫に当たるという。
== 生涯 ==
元は一族の中でも傍流の出身であったが、[[道光]]5年([[1825年]])に旗長である索特納木多布済([[:zh:索特纳木多布济|zh]])が男子のいないまま没すると、一族の中で儀容・儀表両方に優れたセンゲリンチンが養子に迎えられ、[[ホルチン]]郡王位を継ぐ。養父は[[嘉慶帝]]の皇女である庄敬和碩公主([[:zh:庄敬和硕公主|zh]]、
[[咸豊]]3年([[1853年]])、[[天津市|天津]]南郊で[[太平天国の乱|太平天国]]の[[北伐 (太平天国)|北伐軍]]を撃破した。咸豊5年([[1855年]])、[[山東省]]の馮官屯で太平天国の[[李開芳]]軍を全滅させ、李開芳を捕えた。同年には親王に封ぜられている。
咸豊7年([[1857年]])、[[アロー戦争]]が勃発すると天津防衛の[[欽差大臣]]に任命され、咸豊9年([[1859年]])には[[大沽]]の戦いで[[イギリス帝国|イギリス]]・[[フランス]]連合軍を破った。しかし翌10年([[1860年]])に天津が陥落し、彼が率いるモンゴル騎兵軍は[[通州区|通州]]に撤退した。しかも通州の八里橋で英仏連合軍に惨敗しモンゴル騎兵軍は全滅、これにより英仏連合軍は[[北京市|北京]]に侵攻し、[[円明園]]が破壊された。敗北の責任を問われセンゲリンチンは爵位を失ったが、欽差大臣の職には留り、アロー戦争が終結すると爵位も回復した。
同年9月、[[直隷省]]・山東省一帯で[[捻軍]]が蜂起すると掃討に当たり、山東省・[[河南省]]・[[安徽省]]を転戦した。翌11年に[[咸豊帝]]が崩御、[[同治帝]]の生母[[西太后]]らが[[辛酉政変]]を起こすとこれを支持した。
だが、命令は遅く
センゲリンチンの死後、清朝の軍権は[[満州民族|満州人]]・モンゴル人の[[八旗]]から[[漢民族|漢人]]の[[曽国藩]]・[[李鴻章]]らが組織した[[湘軍]]・[[淮軍]]のもとに帰すことになった。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*山下裕作「忠親王僧格林沁の死」(所収:野口鐵郎 編『中国史における教と国家 筑波大学創立二十周年記念東洋史論集』(雄山閣出版、1994年)ISBN 978-4-639-01251-1)
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