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[[Image:Liutaiwan.jpg|thumb|right|劉銘伝]]
'''劉 銘伝'''(りゅう めいでん、[[1836年]][[9月7日]] - [[1896年]][[1月12日]][[清]]末の軍人、政治家。[[安徽省]][[合肥市|合肥]]西郷に生まれた[[清]]末の官人出身。[[淮軍]]を率い、[[台湾省]]の初代[[巡撫]]に任命された。字は'''省三'''、号は'''大潜山人'''。
 
== 人物生涯 ==
幼少時代、劉銘伝は11歳で父を失ったため生活が貧しく、18歳で学問を放棄し山賊に加担した。[[1856年]]それに関わって[[咸豊]]6年([[1856年]])に母が自殺すると、劉は故郷に戻り[[団練]]を組織した。[[太平天国の乱]]の乱に際しては一旦は参加を考慮するも実行せず、同時に清軍による太平天国への積極的な介入にも反対する中立の立場を採用した。咸豊7年([[1857年]]劉は当時の[[合肥市|廬州]]知県の討伐軍参加の要求を拒否し、一時投獄されるも間もなく赦され、[[李鴻章]]の[[淮軍]]に参加して太平天国討伐に参加している。[[1864年]]、劉は部隊を率いて[[常州市|常州]]を攻撃、[[陳坤書]]を捕虜にする軍功を上げる。その功績により[[直隷]][[提督 (清朝)|提督]]に任じられ、[[1867年]]には[[捻軍]]作戦での功績により一等[[男爵]]にも封じられている。
 
[[同治]]3年([[1864年]])に部隊を率いて[[常州市|常州]]を攻撃、[[陳坤書]]を捕虜にする軍功を上げる。その功績により[[直隷]][[提督 (清朝)|提督]]に任じられ、同治6年([[1867年]])には[[捻軍]]を[[尹隆河の戦い]]で大打撃を与え、捻軍作戦での功績により一等[[男爵]]にも封じられている。しかし劉銘伝が[[北京市|北京]]で任官していた際、[[丁汝昌]]など他の官人との関係に衝突が生じた。そのため官を辞して故郷へと戻った劉銘伝は肥西書院など建設し、また祖祠を修復するなどの活動を行なっている。
 
[[光緒]]10年([[1884年]]、[[ベトナム]]の権益を巡り[[清仏戦争]]が勃発すると、劉銘伝は清より再度任用され[[台湾]]へと向かった。彼はい、台湾に於いてフランス軍の上陸作戦を何度となく阻止し、[[滬尾の戦い]]の勝利でフランス軍の台湾上陸計画を最終的に放棄させた。翌11年([[1885年]])に清仏戦争が終結、清は台湾を[[福建省]]より分離し独立した[[台湾省]]を設置すると、劉銘伝は[[台湾巡撫]]に任じられた。[[1891年]]までの期間、劉は台湾に於いて各種防衛設備を整備し、軍備を再編し、同時に台湾にインフラを整備し、後の台湾の発展の基礎を築いた。インフラ整備としては台湾初の[[鉄道]]建設、台湾と福建間に電信ケーブルを敷設、その他電報局、煤務局、鉄路局等の管理機構を整備している。しかし彼の改革は官僚腐敗と財源問題を考慮しないものであり、財政負担は日を追って増加、また汚職も蔓延し民衆の反発を受けることとなる。[[1889年]]、[[彰化県|彰化]]で発生した[[施九緞]]の叛乱へと繋がることとなる
 
光緒17年([[1891年]])までの6年間、劉銘伝は台湾に於いて各種防衛設備を整備し、軍備を再編し、同時に台湾にインフラを整備し、後の台湾の発展の基礎を築いた。インフラ整備としては台湾初の[[鉄道]]建設、台湾と福建間に電信ケーブルを敷設、その他電報局、煤務局、鉄路局等の管理機構を整備している。しかし彼の改革は官僚腐敗と財源問題を考慮しないものであり、財政負担は日を追って増加、汚職も蔓延し民衆の反発を受けることとなり、光緒15年([[1889年]])には[[彰化県|彰化]]で[[施九緞]]の叛乱が発生している。
[[1891年]]、劉は故郷に戻り、後任に[[邵友濂]]が任命された。[[1896年]]、故郷で病没している。著書に『劉壮粛公奏議』、『大潜山房詩稿』がある。
 
[[1891光緒17]]、劉は故郷に戻り、後任に[[邵友濂]]が任命された。[[1896光緒22]](1896年)、故郷で病没している。著書に『劉壮粛公奏議』、『大潜山房詩稿』がある。
 
==関連項目==
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*[http://www.syps.hlc.edu.tw/taiwan/newpage14.htm 劉銘伝]
 
{{先代次代|[[福建省|福建]][[巡撫]]|[[1884年]] -[[ 1885年]]|[[張兆棟]]| - }}
{{先代次代
|[[台湾巡撫]]
|[[1885年]] -[[ 1891年]]
|-
|[[沈応奎]]