「アウラングゼーブ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Rayaraya (会話) による ID:52890255 の版を取り消し
28行目:
| 配偶者9 =
| 配偶者10 =
| 子女 = [[スルターン (ムガル皇子)|スルターン]]<br>[[バハードゥル・シャー1世]]<br>[[アーザム・シャー]]<br>[[アクバル (ムガル皇子)|アクバル]] <br>[[カーム・バフシュ]]<br>[[ゼーブンニサー・ベーグム]]<br>[[ズィーナトゥンニサー・ベーグム]]<br>[[バドルンニサー・ベーグム]]<br>[[ズブダトゥンニサー・ベーグム]]<br>[[ミフルンニサー・ーグム]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ムガル朝]] ([[ティムール朝]])
64行目:
象は怒り狂いアウラングゼーブの馬を牙で刺したため、彼は象と地上で戦わなくてはならなくなったが、廷臣らが助けに入り事なきを得た。シャー・ジャハーンは彼を大層褒め、多数の褒美と「[[バハードゥル]]」の称号を与えた、と『[[パードシャー・ナーマ]]』は記している<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.236</ref>。このことから、アウラングゼーブは幼少期より勇敢な人物であったことがわかる。
 
また、アウラングゼーブは若年よりイスラーム教に傾倒し、そのため彼は「[[ファキール]]」(貧者)あるいは「[[ダルヴィーシュ]]」(托鉢僧)と呼ばれるほどの熱烈なムスリムとなった(ここでのファキール、ダルヴィーシュの意味は神秘的修行者を指す)<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.30</ref>。アウラングゼーブは[[アクバル]]以来の宗教的融和を否定した[[ナクシュバンディー教団]]の[[シャイフ・アフマド・シルヒンディー]]の思想を強く受けていた。この時期、シャー・ジャハーンは[[ヴァーラーナーシー]]の寺院を破壊していたし、帝国の宮廷ではイスラーム復興運動が盛んとなっていた。
 
一方、アウラングゼーブは全く正反対のアクバル以来の融和路線を支持する兄のダーラー・シコーと激しく対立し、彼を「[[カーフィル]]」(背教者、偶像崇拝者)とさえ呼んだ。対立の要因はそれだけでなく、シャー・ジャハーンのダーラー・シコーに対するアウラングゼーブも嫉妬するほどの偏愛にあった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。
99行目:
ミール・ジュムラーの帰順もまた、このとき家族や自身の軍隊とともに立ち退くことを認められ、アウラングゼーブとともに王国を去った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。アウラングゼーブとミール・ジュムラーはその道中[[ビジャープル王国]]を通過したが、その際に同国で最も大規模な城塞[[ビーダル]]を落として手中に入れ([[ビーダル包囲戦]])、ダウラターバードへと戻った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
 
[[フランス]]の旅行家[[フランソワ・ベルニエ]]によると、アウラングゼーブとミール・ジュムラーの二人はダウラターバードで固い友情に結ばれ、アウラングゼーブは一日に二度ミール・ジュムラーの顔を見ずには生きていけず、ミール・ジュムラーもアウラングゼーブにまた会わずには一日を過ごせなかったのだという<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。ベルニエはまた、ミール・ジュムラーとの結びつきが、「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
「アウラングゼーブの王座を築く上での最初の礎石となった」と記している<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。
 
そののち、ミール・ジュムラーはシャー・ジャハーンに面会するため、妻子ら家族とともにアウラングゼーブのもとを離れ、多数の贈答品を携帯してアーグラへ赴いた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.43</ref>。シャー・ジャハーンに面会した際、ミール・ジュムラーはゴールコンダの豊かさを証明するため巨大なダイヤモンドである[[コーヒ・ヌール]]を贈呈し、岩山のカンダハールよりはデカン方面へと兵を進め、[[コモリン岬]]まで制圧するよう進言した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.43-44</ref>。シャー・ジャハーンはこの進言を受け入れ、ミール・ジュムラーの指揮の下で大軍を送ることにした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.44</ref>。
 
だがしかし、ここで皇帝の長男ダーラー・シコーがアウラングゼーブに兵力を注ぐことになると反対し、この企てを止めようとした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。その結果、アウラングゼーブはデカン総督としてダウラターバードにとどまり戦争に一切関与しない、ミール・ジュムラーを総大将に全権を持つこと、その忠誠を保証するために彼の家族をアーグラに留めおくことが条件とされた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。
ミール・ジュムラーは仕方なくこの条件を受け入れてデカンへと進み、ビジャープル王国の領土へと入り、[[カリヤーン]](カリヤーニー)の城塞を包囲した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.45</ref>。
 
111 ⟶ 110行目:
[[1657年]][[9月]]、父帝シャー・ジャハーンが病床に臥すと、帝国内において混乱が起こり、新たなる動乱が始まった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。アウラングゼーブを含む息子ら4人による「勝つか死ぬか、王になるか滅びるか、二つに一つ」の皇位継承戦争である<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.47</ref>。
 
皇位継承戦争が幕を開けるや否や、長兄のダーラー・シコーはデリーとアーグラで、次兄の[[シャー・シュジャー (ムガル皇子)|シャー・シュジャー]]は[[ベンガル]]で、弟の[[ムラード・バフシュ]]はグジャラートでそれぞれ兵を集めた。だが、アウラングゼーブはその性格から慎重に動き、情勢を見たうえで、ミール・ジュムラーとの合流を優先した。
 
ミール・ジュムラーはカリヤーニーをいまだ包囲し続けていたが、アウラングゼーブはそこに長男スルターンを送り、ダウラターバードに来て合流するように説得を行った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.50</ref>。だが、ミール・ジュムラーはアーグラで家族が人質にとられているため、合流して援助することも、味方だと公言することもできないと言い、スルターンは仕方なくダウラターバードへと戻った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.50-51</ref>。それでも、アウラングゼーブはめげずに今度は次男ムアッザムを送り、ミール・ジュムラーの説得に成功した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.51</ref>。
 
その後すぐ、ミール・ジュムラーは籠城軍に更なる攻撃をかけて和議に応じさせ、ムアッザムとともにアウラングゼーブのいるダウラターバードへと向かった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、p.51</ref>。アウラングゼーブの喜びようは半端な激しく、ミール・ジュムラーを「バーバー」(父上)、「バーバージー」(父君)とさえ呼んだ。また、アウラングゼーブはその家族が殺害されぬよう一計を案じて、ミール・ジュムラーを拘束したように見せかけてともに行軍することを提案し、ミール・ジュムラーもこれを了承した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一) 』、pp.52-53</ref>。
 
アウラングゼーブはミール・ジュムラーとの合流に成功してダウラターバードを出たのち、ムラード・バフシュにを与えることで同盟を結んだ。ムラード・バフシュはグジャラートのアフマダーバードを出て、アウラングゼーブと合流し、兄ダーラー・シコーに対抗しうるかなりの大軍団が出来た。
148 ⟶ 147行目:
追撃に向かおうとしていたが完全にこれを部下に任せ、自身はシャー・シュジャーの討伐に向かった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.114 </ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.232</ref>。
 
そして、[[1659年]][[1月5日]]、アウラングゼーブはシャー・シュジャーとアラーハーバード付近の[[カジュハ]]でとの戦いに臨んだ([[カジュハの戦い]])<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.114</ref>。戦闘は最初の方はシャー・シュジャーの優勢で、またアウラングゼーブの後陣を講和したはずのダーラー・シコー側の武将[[ジャスワント・シング]]が襲撃するなどしたため、アウラングゼーブの軍は混乱した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.115-116</ref>。
 
しかし、ミール・ジュムラーが何とかアウラングゼーブに冷静さを取り戻させたこと、そしてアウラングゼーブの強運さによってによって、シャー・シュジャーは戦いに敗れてしまった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.116-117</ref>。シャー・シュジャーは一命を取り留めたが、軍は壊走した。この日の戦いもアウラングゼーブの勝利に終わった。
196 ⟶ 195行目:
アウラングゼーブは自身が手本となるよう、祈りや断食、その他イスラーム教の義務を毛厳守することを実行し、宝石など身に着けずに羊毛や綿の衣服といった質素な服装のみを着付けていた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.234</ref>。彼はその側近にもこれを厳しく要求し、デリーとその近郊においてこれらは厳格に保たれていた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.234</ref>。
 
アウラングゼーブの治世、ウラマーは重用され、アクバルの治世に失った領地や権威などを取り戻した。1660年代から[[1670年]]代にかけて、アウラングゼーブはムガル帝国の法体系を確立するためにウラマーにこれまでの判例集を収集させ、判例集「[[ファターワーイェ・アーラムギーリー]](アーラムギールの教令集)」を編集させた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。
 
[[1669年]][[4月9日]]、アウラングゼーブは帝国全土でヒンドゥー教の寺院を破壊するよう勅令([[ファルマーン]])を出した<ref>[http://voiceofdharma.org/books/htemples2/ch4.htm CHAPTER FOUR THE MARXIST HISTORIANS]</ref>。これにより、グジャラート、マトゥラー、ヴァーラーナシー、ラージプーターナーなどのヒンドゥー寺院が積極的に破壊された。寺院にあった宝物や偶像は奪われるか砕かれ、大部分はアーグラへと送られた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.235</ref>。
209 ⟶ 208行目:
その他にも、ムスリムとヒンドゥーとのあいだいに関税や巡礼税(聖廟や祭礼に行く際に課される税)などで差を設けたり、ヒンドゥーの祭りを祝うことを禁じ、ヒンドゥー教徒が馬や象、輿に乗ること、武器を携行することも禁じた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。役人の採用ではムスリムを優先したり、ヒあるいはヒンドゥーをムスリムに変えたりして、ムスリムとヒンドゥーの比率が50パーセントに固定された<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。
 
アウラングゼーブはヒンドゥー教徒に過酷な弾圧を加えることで、帝国の大多数を占めるヒンドゥー教徒をイスラーム教に改宗させようとし、またイスラーム教を厳格に遵守させ、帝国を真のイスラーム国家に導こうとした。だが、近藤治は、「ムスリムが少なかったムガル朝インドの政治風土では、結局、分離主義的な方向に向かわざるを得なかった」と述べている。アンドレ・クローもまた「イスラーム教ですらかつて体験したことのない教条主義の対象となったため、皇帝は逆に孤立を深めた」、と主張している<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.237</ref>。
 
===マラーター王国の創始とジズヤの復活===
241 ⟶ 240行目:
そのため、アウラングゼーブはデカンで未だ命脈を保っていたビジャープル王国とゴールコンダ王国に標的を変えた。長い包囲戦を経たのち、[[1686年]]9月にビジャープル王国を、翌[[1687年]]9月にはゴールコンダ王国を制圧し、これらを併合した<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.177</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.242</ref>。だが、このときアウラングゼーブはゴールコンダ王国の版図にあったヒンドゥーの二つの大寺院、[[オリッサ]]の[[ジャガンナート寺院]]と[[南インド]]の聖地[[ティルパティ]]の寺院を破壊することはなかった。これは征服まもない地域のヒンドゥー教徒の住民から反感を買い、抵抗を受けぬよう一定の配慮をしたのだという。
 
その後、アウラングゼーブは再びマラーターとの戦いに戻り、[[1689年]]2月にマラーター王サンバージーを奇襲攻撃により[[サンガメーシュワル]]で捕らえ、同年[[ビーマー川|ビーマー]]河畔[[トゥラープル]]で処刑した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.242-243</ref>。同年にはマラーターの拠点ラーイガド城も落とし、サンバージーの息子[[シャーフー]]を捕らえた。彼はムガル帝国の宮廷で育てられることとなった。危機に陥ったマラーター王国はサンバージーの弟[[ラージャーラーム]]をマラーター王とし、デカンを逃げ[[南インド]]の[[シェンジ]](ジンジー)を拠点とした。
 
こうして、1689年までにアウラングゼーブはデカンを制圧し、帝国の4分の1に当たる領土を版図に加え、ムガル帝国の勢力は南インドにまで及んだ<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.243</ref>。ここまで一国家としてイスラーム国家の勢力が膨張したのは、トゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルク以来であった、フランシス・ロビンソンは語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.243</ref>。
294 ⟶ 293行目:
 
{{Cquote3|
「そなたとそなたのそばにいる者たちが平穏であるように。(余は)老いて(略)手足から力が消え去った。余はたった一人で(この世に)来て、よそ者としてたった一人で(あの世)に去る。余がこの世で過ごした日々は贖罪の日々を除いて、余に後悔の念しか残さなかった。(略)余は臨機応変に統治する才を欠いていたし、民の幸福を気にかけることもなかった。(余の)多大な犠牲を払って過ごした人生は、虚しく過ぎ去っていった。神はこの世におられるが、余の目は神の姿を見ることはできなかった。(略)帝国軍は混乱に陥っている。(略)余はこの世に何も残さず、罪の果実を携えて旅立つのだ。(略)それでも、神の恩寵と慈悲のおかげで強い希望は持っている。しかし、(過去の行動を恐れているので)自らの行動を振り返ることはできない。(略)さらば、さらば、さらば」
}}
 
326 ⟶ 325行目:
 
また、アウラングゼーブは若いころに一度だけヒンドゥーの踊り子に情熱的な恋をし、音楽といった快楽を求め続けるような生活をしていたことがあった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.236</ref>。フランシス・ロビンソン曰く、その踊り子が死ぬことさえなければ、そういう快楽に溺れたままであったかもしれないという<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.236</ref>。
 
シャー・ジャハーンの治世とは違い、アウラングゼーブの治世に文化は衰退し、建築は宗教関係に限られ、宮廷にいた[[ムガル絵画]]の画家集団は解散させられ、[[ヒンドゥスターン音楽]]への保護も打ち切られた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.237</ref>。アウラングゼーブが帝国の文化事業に終止符を打ったのは、シャー・ジャハーンやダーラー・シコーがその保護者であったからと考えられている。しかし、宮廷にいたムガル絵画の画家はラージプート諸王国に仕え、[[ラージプート絵画]]の発展に寄与し、[[18世紀]]にラージプート絵画が最盛期を迎える端緒をつくった。
 
アウラングゼーブは[[アクバル]]帝以来ムガル帝国で進められてきたイスラーム教徒と非イスラーム教徒の融和政策と、その結果として一定程度実現された信仰の自由と宗教間の平等を破壊し、[[シャリーア]]の厳格な適用によってイスラームの優位に基づく秩序を復活させた。故にイスラーム復古主義者の間ではアウラングゼーブを「護教者」とする見解が主流だが、現代的な多元主義者は、アウラングゼーブはイスラームの中から[[ムスリム]]と[[ズィンミー]]という二元的関係に基づく「不平等の共存」を越えた真の多元主義が生まれる芽を摘んだという意見をもっている。
335 ⟶ 332行目:
==家族==
[[File:Hunhar. Emperor Aurangzeb in a Shaft of Light. The St. Petersburg Album ca. 1660 Freer Gallery of Art, Washington.jpg|thumb|right|200px|アウラングゼーブと息子]]
 
===后妃===
*[[ディルラース・バーヌー・ベーグム]]
358 ⟶ 354行目:
*[[バドルンニサー・ベーグム]]
*[[ズブダトゥンニサー・ベーグム]]
*[[ミフルンニサー・ーグム]]
 
==ギャラリー==
364 ⟶ 360行目:
ファイル:Aurangzeb T0000253 104.jpg|[[孔雀の玉座]]に座るアウラングゼーブ
ファイル:Darbarscene.jpg|孔雀の玉座に座り、手に鷹を乗せるアウラングゼーブ
ファイル: Aurangzeb-portrait.jpg|
ファイル:Aurangzeb1.jpg|[[剣]]を持つアウラングゼーブ
ファイル: Aurangzeb 1660.JPG |
ファイル: Emperor Aurangzeb Carried on a Palanquin LACMA M.72.75.3-portrait.jpg|輿に乗るアウラングゼーブ
ファイル: Emperor Aurangzeb Carried on a Palanquin LACMA M.72.75.3.jpg|
ファイル: Equestrian Portrait of Aurangzeb..jpg |馬に乗るアウラングゼーブ
ファイル: TheEquestrian Emperor Aurangzeb on Horseback ca. 1690–1710 The Cleveland MuseumPortrait of ArtAurangzeb..jpg |
ファイル: Emperor Aurangzeb (reigned 1658-1707) LACMA M.72.88.1.jpg|
ファイル: Aurangzeb in old age.jpg|
ファイル: The Emperor Aurangzeb on Horseback ca. 1690–1710 The Cleveland Museum of Art.jpg|
ファイル: Varanasi Aurangzeb Mosque.jpg |[[ギャーンヴァーピー・モスク]]
ファイル: Aurangzeb Mosque, Varanasi.JPG|
415 ⟶ 411行目:
{{DEFAULTSORT:あうらんくせえふ}}
[[Category:ムガル帝国の君主]]
[[Category:インドの君主]]
[[Category:1618年生]]
[[Category:1707年没]]