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[[オットー・ヴィッテ]]('''Otto Witte'''、[[1872年]] [[10月16日]] - [[1958年]] [[8月13日]])はドイツ人の曲芸師である。また5日間という短い間ではあるが、スルタンの甥を装うことでアルバニアとして君臨することに成功した[[王位請求者]]としても有名である<ref>ただし実際に即位したというヴィッテの主張した人物であは歴史家を納得させには至っていない。</ref>
 
==ヴィッテの主張==
===アルバニア王即位===
[[1913年]][[アルバニア公国]]が[[オスマン帝国]]から独立したとき、ムスリム系住民の一部にスルタンの甥ハリム・エッディンを王として招く動きがあった。ハリムと自身の容姿が似ていることを知ったヴィッテは友人マックス・シュレスヴィヒら共謀してアルバニアへ赴く。現地の軍の推戴によりヴィッテは王に即位し嘘がばれるまでの5日間ハーレムを満喫隣国モンテネグロに宣戦布告をした。またその間に王国の財宝のかなりの部分を手中におさめたが、最終的に虚偽が露見し友人と国外へ脱出した。以上がヴィッテの主張となる。
 
===主張の真偽===
当時のスルタン[[アブデュルハミト2世]]にハリムなる皇子の存在は確認されていないおらず<ref>当時アブデュルハミト2世の皇子シェフザーデ・メフメト・ブルハンエッディンがアルバニア公即位を要請されており、ハリムのモデルがシェフザーデ皇子である可能性も指摘されている。</ref>また現地アルバニアにおいてもヴィッテの主張を裏付ける証拠は見つかっていない<ref>さらにヴィッテは1913年2月に即位したと当初主張したが後に8月へとずらした。これは2月はまだアルバニアがセルビアの占領状態にあり、整合性を取るためだったと指摘する者もいる。</ref>このようにヴィッテアルバニア王即位を史実ころ彼の主張を裏付して歴史家に受入れさせようとす証拠試み発見されておらず、そ主張が事実である現時点で認めるとはできろ成功していない。
 
===1925年ドイツ大統領選挙===
またヴィッテは[[1925年ドイツ大統領選挙]]に出馬し25000-230000票を獲得したが、有力候補であった[[ヒンデンブルク]]を支援するため2回目の決選投票を辞退したとも主張している。この件に関してもヴィッテの主張を支持する開票結果は現在のところ見つかっていない<ref>彼に虚言症があった可能性も指摘されている</ref>
 
==ドイツ国内外の認知==
ヴィッテについては当時からドイツ国内で広く知られていた。のちにベルリン警察は公式の身分証明書に元アルバニア王の称号を記載することを許可している(ただし真偽の確認が取れないためか芸名としてであったが)。またヴィッテの語った「体験談」は小説の題材にもなっている<ref>もっともヴィッテ自身の「体験談」もベストセラー小説の影響を受けた可能性が指摘されている</ref>
 
==新聞雑誌の報道==
歴史学的な検証結果とは対照的に雑誌や新聞はヴィッテの話を事実はアルバニア王として歴史の教科書に名を残すれまとには失敗したが、支持者がいないわけはなかった。不遜な歴史家たちとは異な返し取り上げ、新聞や雑誌は「元アルバニア王」について敬意を持って報じてきた。例えば[[タイム誌]]は「元アルバニア王オットー1世(Otto I, ex-King of Albania)」が87歳での崩御した際、その死を悼む記事を掲載している
==脚注==
<references />