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== 生涯 ==
=== 大学卒業まで ===
大阪市東区北浜4丁目の八木忠兵衛、みちの三男として生まれる<ref>沢井[2013:1-6]</ref>。父は両替商であった。大阪市愛日尋常小学校、第四高等小学校、大阪府第一中学校(北野中学に改称)に入学。1903年同中学を主席で卒業。すでに父が亡くなっていたが、19歳上の長兄は株屋に就職し、秀次八木は経済的援助を受けた。なお、当時の株屋は世間の評判が低く、分家して秀次が八木家を継承した。1903年第3高等学校理科に入学。中学、高校時代には俳句など文学にも興味があった。1906年東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した。無線に興味をもった。卒業時の33名中5番であった。
 
=== 仙台高等工業学校、東北帝国大学時代 ===
電気科教授の世話で直ちに仙台高等工業の講師となった。<ref>沢井[2013:7]</ref>秀次八木は東北帝国大学理科大学の[[本多光太郎]]の知遇を得、彼はのちに[[長岡半太郎]]に伝え、長岡の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年から[[ドレスデン]]工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年は第一次大戦勃発でスイスにいたが、イギリスの[[フレミング]]教授の教室に移った。1915年は渡米しハーバート大学のピアス教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。
 
当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の成果を生み出す。
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菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。
講師として在職していた[[湯川秀樹]]教授を叱咤激励し、それが後に[[ノーベル物理学賞]]を受賞する[[中間子論]]に関する論文につながったとされている。
 
=== 大学教授時代 ===
八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには[[心眼]](科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。
 
=== 技術院総裁時代 ===