「シュテフィ・グラフ」の版間の差分

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1985年 トーナメントの優勝こそなかったが、全仏、全英で4回戦まで進出し、順調にランクを上げ、年末には6位につけた。そしてグラフはマイアミのクレーコートトーナメントの準決勝で最高のベースラインプレーヤー、世界ランク2位の[[クリス・エバート]]と初めて対戦した。その後この年エバートにはヒルトンヘッド、ベルリン、全仏でも顔合わせしたがすべてエバートが勝っている。全英では世界ランク4位で芝の得意な[[パム・シュライバー]]に惜敗したが、将来のトップ選手としてのポテンシャルを十分に見せつけた試合となった。フラッシングメドウで行われたUSオープンでは4大トーナメントで初めて準決勝に進出した。ここで16才となったグラフは、クリス・エバートとともに1980年代世界の女子テニス界を支配していた、[[マルチナ・ナブラチロワ]]と対戦する。当時29才だったナブラチロワは6-2, 6-3で勝利したが、報道陣からは「いつかグラフがトップに君臨すると思うか」との質問を何回も受けた。<br />
 
グラフのスケジュールは早熟選手に多い「燃え尽き症候群」を恐れた父によってきっちり管理されていた。そのため、1985年には同世代のライバル、アルゼンチンの[[ガブリエラ・サバチーニ]]がUSオープンまで21イベントも出場したにもかかわらず、グラフはたった10イベントしか出場しなかった。加えて父は娘の私生活まで管理した。ツアーに伴う社交パーティー等はシュテフィが練習と試合に集中できるようしばしばピーターが断った。シュテフィは毎日4時間程度、ピーターとコーチの[[パベル・スロジル]]([[Pavel Složil]])と練習するのが常で、空港からコートに直行することもよくあった。もともと恥ずかしがりやで内向的な彼女は、このような競技環境にあってキャリア初期にはほとんど友達ができなかったが、その反面、プレーは確実に向上した。
 
1986年 4月13日、グラフはヒルトンヘッド/サウスキャロライナで開催されたファミリー・サークル・カップの決勝でエバートを破り、WTAトーナメントで初優勝を遂げた。(この勝利以来3年半に渡りシュテフィーは対エバート戦に7回勝利し負けることはなかった。)その後更にサンキストWTAチャンピオンシップ(アメリア島)、USオープンクレー(インディアナポリス/米)、ドイツオープン(ベルリン)と続けて3回優勝し、ドイツオープンでは決勝でナブラチロワを6–2, 6–3で下して勝利した。 しかし、病気のためにウィンブルドンを欠場しなければならなくなり、さらにその数週間後足の指が骨折するなどして競技を休まざるを得なくなった。モーウォー(ニュージャージー/米)での小規模なトーナメントで復帰し優勝はしたが、調子が万全とは思われないなかで迎えたUSオープンの準決勝でナブラチロワと対戦することとなった。試合は二日間に及び、ナブラチロワが3回のマッチポイントをしのいで6–1, 6–7, 7–6で辛勝した。その後グラフは 東レ・パン・パシフィック・オープン(東京)、ヨーロッパインドア(チューリッヒ/スイス)、プリティポーリークラシック(ブライトン/英)で三回連続インドアのタイトルを取得したが、シーズン最終のバージニアスリムスチャンピオンシップでは再度ナブラチロワと当たり6-7, 3-6, 2-6で敗退した。