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[[File:Sue Sumii 01.jpg|thumb|250px|住井すゑ]]
'''住井すゑ'''(すみい すえ、[[1902年]][[1月7日]] - [[1997年]][[6月16日]])は、[[奈良県]]出身の[[小説家]]。代表作は『[[橋のない川]]』<ref>一部から七部まで。八部は表題のみ残し未完。</ref>で、[[部落問題|部落差別]]について取り組んだ。夫は編集者・農民文学者の[[犬田卯]]。[[ジャーナリスト]]・[[エッセイスト]]の[[増田れい子]]は実娘。[[画家]]の[[HATAO]]は孫であり、その妻は[[絵本作家]]の[[永田萠]]。
 
==来歴・人物==
奈良県磯城郡平野村(現在の[[田原本町]])生まれ。[[東京府]][[豊多摩郡]][[杉並町]](現在の[[東京都]][[杉並区]])在住を経て、[[1935年]]に夫の郷里である[[茨城県]][[稲敷郡]]牛久村城中(現在の[[牛久市]]城中町)の[[小川芋銭]]宅のすぐ近くに転居し、執筆と農作物自給生活の拠点とする<ref>『母・住井すゑ』増田れい子著</ref>。以降60年以上、同所に居住。代表作『橋のない川』を初め、多くは[[農村]]で執筆された。
 
===年表===
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*[[1982年]]、[[河出書房新社]]より文を執筆した絵本集を刊行
*[[1992年]]、[[日本武道館]]で講演「九十歳の人間宣言 - いまなぜ[[人権]]が問われるのか」。聴衆8500人
*[[1997年]]、死去
 
==戦時中の発言==
第二次世界大戦中は「農婦われ」「生産の歌」「日の丸少女」「佐久良東雄」「野の旗風」「難きにつく」など数々の軍部賛美の随筆や小説を書き、それらの作品で「戦争はありがたい」「マニラも陥ちたね、いや愉快」「神国日本は開闢以来無敵」「戦争反対なんていう腰抜け出てこい」などと書いている。そのとき住井すゑは40歳近かった。この事実を指摘された住井すゑ本人は「ほほほ…何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した<ref>[[朝日新聞社]]発行の『[[論座|Ronza]]』(1995年8月号)の特集「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」</ref>。[[ABCラジオ]]特別番組で、講演で非を認める発言があったと紹介された。
 
==抱樸舎==
住井すゑは、牛久城中の自宅敷地内に「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)を建て、人間平等思想の学習会を行った。死去後も学習会や命日付近の日曜日にすゑを偲ぶ「野ばらの日」が開催された。現在でも建物は存在し、希望者が見学することは可能である。[[2006年]]6月18日には「野ばらの日」が学習会の主催でなく自由参加となり、以後も毎年6月第3日曜日に抱樸舎にて開催される<ref>[http://www.city.ushiku.ibaraki.jp/info/kouhoushi/2006_06_15/p02info.htm 広報うしく]</ref>。
 
==著書==