「シャルル6世 (フランス王)」の版間の差分

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| 姓名 =
| 出生日 = [[1368年]][[12月3日]]
| 生地 = {{FRAFRA987}}、[[パリ]]
| 死亡日 = 1422年10月21日
| 没地 = パリ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[サンドニ大聖堂]]
| 配偶者1 = [[イザボー・ド・バヴィエール]]
| 子女 = [[イザベラ・オブ・ヴァロワ|イザベル]]<br/>[[ジャンヌ・ド・フランス (1391-1433)|ジャンヌ]]<br/>[[ミシェル・ド・フランス|ミシェル]]<br/>[[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]]<br/>[[ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公)|ジャン]]<br/>[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|カトリーヌ]]<br/>[[シャルル7世_(フランス王)|シャルル7世]]
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== 即位 ==
1380年、父シャルル5世が[[食中毒]]で急死したため、王位を継承した。若年のため、めは叔父る[[ブルゴーニュ公]][[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ(豪胆公)]]らが摂政となったが、[[1388年]]から親政を開始した。しかし母ジャンヌの家系[[ブルボン家]]には精神異常の遺伝があり、シャルル6世も早くから精神的な不安定性を示していた。
 
== 発狂 ==
[[1392年]]に寵臣であった王軍司令官オリヴィエ・ド・クリソンの暗殺未遂事件が起こると、シャルル6世は興奮して首謀者と見られた[[ブルターニュ公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の討伐軍を自ら率いた。しかし、[[ブルターニュ]]遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父フィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]に「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後、一旦回復したが、不安定な精神状態が続いていた。
 
翌[[1393年]]1月28日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃[[イザボー・ド・バヴィエール]]は侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は[[亜麻]]と[[松脂]]で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、[[たいまつ]]に近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公爵夫人[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ジャンヌ・ド・ブローニュ]]のとっさの機転で助かったものの、4人が焼死するという事件になった。シャルル6世はその後、急速に精神を病むようになった。
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精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、叔父フィリップ豪胆公やその息子[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン無怖公]]を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公ルイを中心としシャルル6世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。
 
このようなフランスの状勢を見て、[[イングランド君主一覧王国|イングランド王]][[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして[[1415年]]、ヘンリー5世はシャルル6世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじく、フランス軍は各地で連戦連敗した。
 
その間、[[ドーファン|王太子]][[ルイ・ド・ギュイエンヌ|ルイ]]が[[1415年]]に、ルイに代わる王太子[[ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公)|ジャン]]が[[1417年]]に2人の子が相次いで没するなどの不幸もあった。
 
このため両派に和解の動きが起こったが、1419年にアルマニャック派を代表する王太子シャルル(後の[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]])が和解交渉の会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだ[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ善良公]]はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、[[1420年]]4月に[[トロワ条約]]を結んでヘンリー5世のフランス王位継承を支持した。これにより、ヘンリー5世とシャルル6世の娘[[キャサリン・オブ・ヴァロワ|カトリーヌ(キャサリン)]]との結婚と、シャルル6世の死後は王太子シャルルではなくヘンリー5世がフランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー5世は現実に王位を継承することなく1422年8月に没したが、シャルル6世も同年10月21日、ヘンリー5世の後を追うように病死した。
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*マルグリット(1407年 - 1458年、[[オデット・ド・シャンディベール]]所生) - 1428年、ベルヴィル領主ジャン3世・ド・アルプダンヌと結婚
 
== シャルル6世のタロット ==
==逸話==
1392年、精神が不安定なシャルル6世を慰めるため、「シャルル6世のタロット」とよばれるデッキが作成された。「フランス国王シャルル6世の会計帳にある「金色や様々な色で描かれた56枚の遊技札」の記述によれば、3デッキ作成の代金として、1392年に画家ジャクマン・グランゴヌール(Jacquemin Gringonneur)に、6枚のペルシャ硬貨を支払ったとある。[[パリ国立図書館]]に所蔵されたタロットが、その「シャルル6世のタロット」と呼ばれ、現存する最古のタロットカードであるとされていた。しかし現在では、このタロットは、推定で1469年から1471年頃、[[エステ家]]のボルソ・デ・エステ(Borso d'Este)公爵のために作成されたものだという学説が有力となっている<ref>[http://expositions.bnf.fr/renais/feuille/index4.htm パリ国立図書館HPより「シャルル6世のタロット」一覧]</ref>。
1392年、精神が不安定なシャルル6世を慰めるため、「シャルル6世のタロット」とよばれるデッキが作成された。
(「フランス国王シャルル6世の会計帳にある「金色や様々な色で描かれた56枚の遊技札」の記述によれば、
3デッキ作成の代金として、1392年に画家ジャクマン・グランゴヌール(Jacquemin Gringonneur)に、6枚のペルシャ硬貨を支払ったとある。)<br>
[[パリ国立図書館]]に所蔵されたタロットが、その「シャルル6世のタロット」と呼ばれ、
現存する最古のタロットカードであるとされていた。<br>
だが現在では「シャルル6世のタロット」とされてきたタロットは、推定1469~1471年に[[エステ家]]のボルソ・デ・エステ(Borso d'Este)公爵のために作成されたものだという学説が有力となっている。<br>[http://expositions.bnf.fr/renais/feuille/index4.htm パリ国立図書館HPより「シャルル6世のタロット」一覧]
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{Commonscat|Charles VI of France}}
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[[Category:フランス国王]]
[[Category:ヴァロワ家幼君]]
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[[Category:パリ出身の人物]]
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