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'''林 則徐'''(りん そくじょ、Lín Zéxú、[[1785年]][[8月30日]] - [[1850年]][[11月22日]])は、[[中国]][[清]]代の[[官僚]]、[[政治家]]。[[欽差大臣]]を
[[字]]は'''少穆'''(しょうぼく、Shǎomù)。[[諡]]は'''文忠'''(ぶんちゅう、Wénzhōng)。[[イギリス]]による[[阿片]][[密輸]]の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは[[阿片戦争]]を引き起こした。
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[[穆彰阿]]によって欽差大臣を解任された林則徐は[[新疆ウイグル自治区|新疆]]に左遷された。しかし、林則徐はここで農地改革を行い、善政を布いた事で住民から慕われた。林則徐にとってもこの場所で南下する[[ロシア帝国]]の脅威を実見できた事は大きな収穫であり、進士の後輩に対し「将来清の最大の脅威となるのはイギリスよりもむしろロシアだろう」と言い残した。これが後の[[左宗棠]]らの'''塞防派'''を形作る事になった。
[[1849年]](道光29年)に隠棲したが、[[太平天国の乱]]が勃発すると召し出され、太平天国に対する欽差大臣に任命された。そして任地に赴く道中に[[普寧市|普寧]]で病死した。[[両広総督]]兼南洋大臣などをつとめた[[沈葆テイ|沈葆楨]](1820年 - 1879年)の妻は、林則徐の娘、林普晴(1821年 - 1873年)である。
== 評価 ==
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== 子息 ==
*長男:[[:zh:林汝舟|林汝舟]]
*三女:林普晴(1821年 - 1873年) - [[沈葆テイ|沈葆楨]]の妻。沈葆楨は道光27年([[1847年]])に科挙に合格し進士となった。同期には[[李鴻章]]がいる。
== 林則徐の印 ==
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*[http://www.asahi.com/international/history/chapter01/01.html アヘン戦争 どう伝わったか]
{{先代次代|[[河道総督]]|1831年 - 1832年|[[厳烺]]|[[呉邦慶]]}}
{{先代次代|[[江蘇省|江蘇]][[巡撫]]|1832年 - 1837年|[[程祖洛]]|[[陳鑾]]}}
{{先代次代|[[湖広総督]]|1837年 - 1839年|[[ナルチンア]](訥爾経額)|[[桂良]]}}
{{先代次代|[[両江総督]]|1839年 - 1840年|[[陶ジュ|陶澍]]|[[イリフ]](伊里布)}}
{{先代次代|[[両広総督]]|1840年|[[トウ廷
{{先代次代|[[陝西省|陝西]][[巡撫]]|1846年 - 1847
{{先代次代|[[雲貴総督]]|1847年 - 1849年|[[李星沅]]|[[程矞采]]}}
{{DEFAULTSORT:りんそくしよ}}
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