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咸豊8年([[1858年]])から李鴻章は[[曽国藩]]の湘軍幕僚となり、湘軍経営の補佐をしつつ自らの部隊指揮権も得た。咸豊10年([[1860年]])に曽国藩が[[両江総督]]になると李鴻章は淮揚水師を任せられ、[[淮河]]一帯で活躍した。咸豊11年([[1861年]])、湘軍は太平天国軍を破って[[安慶市|安慶]]を占領した。
 
この年の終わりに太平天国軍が[[杭州]]を攻略して[[上海]]を脅かすと、地元の豪商層から[[銭鼎銘]]を通して救援依頼が曽国藩に寄せられた。そこで同治元年(1862年)に曽国藩から[[郷勇]]7000名を集めるよう命を受けた李鴻章は、旧淮軍の部将[[劉銘伝]]・[[周盛波]]・[[周盛伝]]・[[張樹声]]・[[張樹珊]]・[[呉長慶]]、曽国藩幕下の[[程学啓]]、湘軍の部将[[郭松林]]、[[鮑超]]率いる霆軍の部将[[楊鼎勛]]らを率いて再び合肥で郷勇を募り、ここに正式に淮軍が成立したのである。
 
=== 太平天国軍との戦い ===
新たに編成された淮軍は急いで上海救援に向かうが、その途上には太平天国軍の勢力圏がある。そこで上海の[[中外会防局]]は[[イギリス帝国|イギリス]]の汽船の7隻を雇って李鴻章の部隊を上海に運んだ。この時には[[イギリス帝国|イギリス]]の中国派遣艦隊司令官[[ジェームズ・ホープ]]が派遣した軍艦が護衛している。湘淮混成軍6500人を乗せたイギリス船は、長江の太平天国軍の勢力圏内を通り抜けて上海に到達した。
 
上海に到着した李鴻章は西洋の武器を購入して淮軍の装備を整え、イギリス人を招聘して淮軍の訓練を行った。この結果、淮軍の樹字営・春字営は虹橋での緒戦で大勝した。李鴻章は自ら前線で指揮を執り、わずか数千人で[[李秀成]]の10万余り大軍に打ち勝った。これによって淮軍の名声は大いに高まった。
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=== 北洋軍へ ===
同治9年([[1870年]])の[[天津教案]]後の混乱で曽国藩が[[直隷総督]]を離任すると、その後任として李鴻章が直隷総督に任命された。李鴻章が[[天津市|天津]]に赴任すると、その団練である淮軍も拠点を天津に移した。直隷総督の軍事的権威の根幹となったのである。これ以降も淮軍は、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[壬午事変]]([[光緒]]8年、[[1882年]])・[[清仏戦争]](光緒10年、[[1884年]])といった清王朝の主要な紛争に派遣された。李鴻章が私的に集めた団練ながら、清朝屈指の地方軍だったのである。
 
これ以降も淮軍は、[[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[壬午事変]]([[光緒]]8年、[[1882年]])・[[清仏戦争]](光緒10年、[[1884年]])といった清王朝の主要な紛争に派遣された。李鴻章が私的に集めた団練ながら、清朝屈指の地方軍だったのである。
 
光緒20年([[1894年]])の[[日清戦争]]に際して当初李鴻章は開戦に消極的だったが、開戦すると淮軍がその主力を担い、淮軍は壊滅的な打撃を受けて解散する。これが淮軍の終焉である。
 
その後、淮軍に代わる軍隊の必要性を痛感した清朝は、李鴻章幕下の[[胡イツフン|胡燏棻]]に命じて改めて天津で洋式軍隊の編成を行った。[[定武軍]]である。ここには旧淮軍の将兵も多数参加した。失脚した李鴻章の後を継いで直隷総督となった[[王文韶]]は文官であったため、光緒21年([[1895年]])10月に定武軍は李鴻章の軍事的な後継者である[[袁世凱]]の管轄となり、さらに[[新軍|新建陸軍]]と改称する。この淮軍からの流れを汲んだ新建陸軍が袁世凱の軍事的根拠となり、後の[[北洋軍閥]]の形成へと繋がっていく。
 
== 編成・制度 ==
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=== 淮軍独自の制度 ===
淮軍と湘軍の最大の相違点は、淮軍が積極的に西洋の新式兵器を導入した事である。同治2年、各部隊指揮官とは別に西洋人を軍事教官として招いて西洋式軍事教練を行わせた。またそれまでの火縄銃隊を西洋式小銃隊に改め、さらに旧式の劈山砲を開花砲に改めた。さらに光緒3年([[1877年]])にはドイツの軍制を参考に[[クルップ|クルップ砲]]隊を設置、[[洋務運動]]の過程で創設された[[江南機器製造総局]]・[[天津武備学堂]]で武器製造と人材育成を図った。また拠点を直隷省に移してからは、北洋水師内に近代的な[[北洋艦隊]]を編成した。
 
このように淮軍は近代化を進めていったが、その編成は湘軍の制度を継承していたため限界はあった。平時の兵の訓練は西洋人軍官を招いて洋式で行ったが、統領・営官・哨官らの士官は西洋の用兵を学んでいなかったため、戦時には必ずしも訓練の成果を発揮できていなかった。また、戦時に臨時編成する非正規兵団だった上に、各士官が個別に部下を集める事で上下の繋がりを強くする事を企図した組織だったため、号令は統一されておらず、ただ個別に各々の敵と戦う事しかできなかったのである。