「不知火光五郎」の版間の差分
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最高位は[[大関]](大阪相撲)。[[横綱]]を締めた錦絵が残るが、図柄は他力士の流用であり、土俵入りを行った記録はない。「山響改 '''不知火光右衛門'''」とあり改名の記念品との見方もある。<ref name="kougorou1"/>
筑前国嘉麻郡下山田で佐藤利平の次男として出生<ref name="kougorou2"/>。幼少の頃から力持ちとの評判で、巡業で訪れた、同じ筑前国出身の[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|梅ヶ谷藤太郎]](後の第15代横綱)に見初められ、相撲界に入門。初め'''山田川'''と名乗ったとされるが番付に確認できないという。'''山響
[[1882年]]2月、東上の意志を固め梅ヶ谷の門に入ったが、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で行われた東京・大坂合併相撲興業の2日目([[7月11日]])に34歳の若さで急逝した。<ref name="kougorou1"/>。強さを妬まれての毒殺説がある<ref name="kougorou2"/>。墓は嘉麻市の梅林公園内にある安国寺。嘉麻市立上山田小学校では、彼を偲び、「相撲体操」が毎年披露されている<ref name="kougorou2"/>。
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