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==経歴==
[[豫州]]潁川郡陰県(現・[[河南省]][[許昌市]])の人。十余歳の頃、祖父である[[鍾繇]]から曽祖父・[[荀爽]]のようになるだろうと称された。始めは[[曹爽]]の元に仕えたが、その失脚後は[[司馬昭]]の側近として魏朝の簒奪に協力し活躍した。
 
[[263年]]、司馬昭から[[蜀漢]]攻略の大将を誰にするか問われたとき、[[トウ艾|鄧艾]]と鍾会を推挙した。鍾会が反乱を企て敗死すると、甥にあたる荀勗を洛陽に還すよう[[郭奕 (太原)|郭奕]]と[[王深]]は主張したが、司馬昭はこれらを退け、以前と同様に荀勗を信任した。[[265年]]、[[司馬炎]]が皇帝となった時、[[賈充]]・[[王沈]]・[[羊祜]]・[[裴秀]]らとともに中心的役割を果たし、魏が滅んで晋が成立すると、皇帝となった司馬炎から大いに寵愛を受けた。[[羊コ|羊祜]]が[[呉 (三国)|呉]]を討伐すべきと進言したときは、賈充と共にこれを諌めている。さらに晋の制度である[[泰始律令]]の制定に関与するなど、武帝の政治に貢献した。[[三国志 (歴史書)|正史・三国志]]の著者である[[陳寿]]の才能を同僚の[[張華]]と共に高く評価していたが、陳寿の記した『魏志』に対して不満を抱いていたため(『[[晋書]]』陳寿伝では政敵である[[張華]]が[[陳寿]]を昇進させようとしたためとある)、吏部に諷して中央から遠ざけ、郡[[太守]]に左遷させている。また、優れた音律家でもあった荀勗は、朝廷の楽律を整備した際[[阮咸]]に陰で非難されたことを根に持ち、始平太守に左遷した。