「伊藤大輔 (映画監督)」の版間の差分

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| ジャンル = [[映画]]
| 活動期間 = [[1924年]] - [[1971年]]
| 活動内容 = [[1920年]]:[[松竹キネマ俳優学校]]に入学<br />[[1924年]]:監督デビュー<br />[[1925年]]:伊藤映画研究所を設立<br />[[1926年]]:[[日活]]に入社
| 配偶者 =
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[忠次旅日記]]』<br />『[[斬人斬馬剣]]』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
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[[1928年]](昭和3年)、『[[新版大岡政談 (1928年の日活の映画)|新版大岡政談]]』で、大河内に隻腕隻眼の怪剣士「[[丹下左膳]]」を演じさせ、スピード感溢れる展開が大人気となり「'''大河内傳次郎の丹下左膳'''」の人気を不動のものとした。以来、『続大岡政談 魔像篇第一』(1930年)や『丹下左膳 第一篇』など大河内主演で一連の丹下左膳シリーズを連発した。
 
[[1929年]](昭和4年)、[[市川右太衛門プロダクション]]で『一殺多生剣』を、[[松竹京都撮影所]]で[[月形龍之介]]主演で『[[斬人斬馬剣]]』を監督。両作とも当時の社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作として知られ、前者は内務省の検閲によって、完成フィルムから300フィート余りが削除されている。しかしカットバックや移動撮影の斬新さで世を驚かし、芸術的に高い評価を受けた。
 
映画が[[トーキー映画|トーキー]]時代を迎えた頃、元々極めて奔放な性格で映画会社とトラブルが多かったことに重ねて、伊藤の社会的思想は当局によって弾圧の対象となり、検閲、言論統制が強まっていく時代の流れのなか、映画作りの意欲が衰えて不振を極め、[[小津安二郎]]、[[溝口健二]]、[[山中貞雄]]らに押されて、目立つ作品を残していない。
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その後[[大映]]時代劇で活躍し、[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]主演の『弁天小僧』『切られ与三郎』などを発表。ほか、『眠狂四郎無頼剣』や『座頭市地獄旅』に脚本を提供し、大映の2大人気シリーズに関わった。
 
[[1961年]](昭和36年)に[[萬屋錦之介|中村錦之介]]主演で『[[反逆児 (1961年の映画)|反逆児]]』を発表し、[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]監督賞を受賞し、戦後の代表作とした。[[1970年]](昭和45年)、[[中村プロダクション]]で撮った『[[幕末 (映画)|幕末]]』が最後の監督作品になった。[[司馬遼太郎]]の小説『[[竜馬がゆく]]』をベースにし、中村、[[三船敏郎]]、[[吉永小百合]]、[[仲代達矢]]らの共演で撮った大作となった。その後は[[萬屋錦之介]]の舞台の脚本や演出を手がけた。
 
[[1972年]](昭和47年)、京都市文化功労者に選ばれる。[[1978年]](昭和53年)、[[山路ふみ子映画賞|山路ふみ子映画功労賞]]を受賞。
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*[[血煙高田馬場]](1928年)※6分の短縮版が現存<ref>[http://www.matsudafilm.com/matsuda/e_pages/e_a_2j.html 主な所蔵リスト 劇映画=邦画篇]、[[マツダ映画社]]、2010年7月20日閲覧。</ref>
*[[斬人斬馬剣]](1929年)※26分の再編集版が現存<ref>[http://202.236.109.20/det.php?mode=1&data_id=32484&notation_id=35442 斬人斬馬剣]、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年7月20日閲覧。</ref>
*[[一殺多生剣]](1929年)※30分の再編集版が現存<ref>[http://www.kyoto-filmfes.jp/premiere.html  第8回京都映画祭]</ref>
*[[続大岡政談 魔像篇第一]](1930年)
*[[素浪人忠弥]](1930年)