「桓公 (春秋宋)」の版間の差分

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'''桓公'''(かんこう、? - [[紀元前651年]])は、[[春秋時代]]の[[宋 (春秋)|宋]]の君主(在位前682年 - 前651年)。姓は子、名は禦説。[[荘公 (宋)|荘公]]の子。[[ビン公捷|湣公]]の弟にあたる。

==生涯==
[[紀元前682年]]、南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、大夫の仇牧を城門で殴殺した。さらに太宰の華父督を殺害し、[[宋子游|公子游]]を宋国の君主に立てた。禦説は亳に逃れ、ほかの公子たちは蕭に逃れた。南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。[[蕭叔大心]]と宋の公族たちは曹の軍を借りて南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、游を国都で殺害した。禦説が擁立された。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れたが、いずれを送還されて殺害された。
 
[[紀元前681年]]春、桓公は[[斉 (春秋)|斉]]・[[蔡]]・[[陳 (春秋)|陳]]・[[チュウ (春秋)|邾]]と北杏で会合した。[[紀元前680年]]、斉・陳・[[曹 (春秋)|曹]]が宋を攻撃した。周の単伯が諸侯の連合軍に合流すると、宋は屈服して和議を結んだ。桓公は単伯や斉・[[衛]]・[[鄭]]と鄄で会合した。[[紀元前679年]]、斉・陳・衛・鄭と鄄で会合した。斉・邾とともに郳を討つと、その隙に鄭が宋に侵攻してきた。[[紀元前678年]]、斉・衛とともに鄭を攻撃した。斉・陳・衛・鄭・[[許]]・[[滑]]・[[滕]]と幽で盟約を結んだ。
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[[紀元前659年]]、斉・魯・曹とともに邢を救援した。斉・魯・鄭・曹・邾と檉で会合した。[[紀元前658年]]、斉・江・黄と貫で盟約を結んだ。[[紀元前657年]]、斉・江・黄と陽穀で会合した。[[紀元前656年]]、斉・魯・陳・衛・鄭・許・曹とともに蔡を攻め落とし、楚に侵攻した。楚が屈服したので、召陵で盟約を結んだ。斉・魯・衛・鄭・許・曹とともに陳を攻撃した。[[紀元前655年]]、斉・魯・陳・衛・許・曹と首止で盟約を結んだ。[[紀元前654年]]、斉・魯・陳・衛・曹とともに鄭を攻撃し、楚軍に包囲された許を救援した。[[紀元前653年]]、斉・魯・陳・鄭と甯母で盟約を結んだ。[[紀元前652年]]、斉・魯・衛・鄭・許・曹・陳と洮で盟約を結んだ。
 
[[紀元前651年]]、死に逝去した。
 
== 子女 ==
*[[目夷]](子魚) - [[公孫友]]の父、[[魚氏]]の祖<ref>『春秋経集解』文公七年より。</ref>。
*[[襄公 (宋)|茲甫]](茲父) - 宋の襄公
*公子鱗
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*『[[史記]]』宋微子世家第八
*『[[春秋左氏伝]]』荘公12 - 16年、19年、26 - 28年、32年、僖公元 - 9年
 
 
{{宋の君主}}