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1939年の時点で、ソビエト軍で最も数が多かった戦車は、[[T-26 (戦車)|T-26]]軽戦車と、[[BT戦車|BTシリーズ]]の快速戦車であった。T-26は動きの遅い[[歩兵戦車]]で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は[[巡航戦車]]で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために、非常に快速の軽戦車として設計されていた。いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、[[対戦車ライフル]]や [[3.7 cm PaK 36|PaK 36]] 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。さらに、その当時は世界中の戦車で用いられていた[[ガソリンエンジン]]は「わずかの刺激で<ref>[[榴弾]]が機関部付近に命中した場合、気化した[[ガソリン]]に点火して火災をおこしやすかった。</ref>」炎に包まれた ([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:111]])。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製の[[ヴィッカース 6トン戦車]]、BTはアメリカ人技術者[[ジョン・W・クリスティー]]の戦車が原型であった。
 
=== A-20とA-32 ===
[[ファイル:T-34 prototypes.jpg|thumb|300px|左からBT-7M、A-20、T-34 1940年式、T-34 1941年式。車幅が広がってくるのが見て取れる]]
[[1937年]]、[[赤軍]]は技師[[ミハイル・コーシュキン]]をBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業は[[ハルキウ]]のハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45 mm 砲M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい[[軽油]]を用いた[[V型12気筒]]の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより[[無限軌道|履帯]]無しでも走行できた([[#Reference-Zheltov-1999|Zheltov 1999]])。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速 85 km での走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった([[#Reference-Zaloga-1984|Zaloga & Grandsen 1984:66, 111]])。また、A-20には先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から[[避弾経始|傾斜装甲]]を取り入れた。A-20は全方向が[[傾斜装甲]]で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、[[徹甲弾]]を弾いて逸らしやすい<ref>Yaziv, D.; Chocron, S.; Anderson, Jr., C.E.; Grosch, D.J. “Oblique Penetration in Ceramic Targets”. ''Proceedings of the 19th International Symposium on Ballistics IBS 2001'', Interlaken, Switzerland, 1257?64</ref>。