「アレクサンドル・メーンシコフ」の版間の差分

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貧しい馬丁の子として生まれ、[[モスクワ]]で饅頭売りをしていたといわれる。首都近郊の外国人居留地に頻繁に出入りしていた若きピョートル1世と出会い、趣味の軍事教練に一兵士として参加し寵臣となる。
 
ピョートル1世の元で[[1697年]]から[[1698年]]の西欧使節団に同行し[[1700年]]から始まった[[大北方戦争]]に出陣、[[バルト海]]沿岸地域の占領を[[ボリス・シェレメーテフ]]と共に任され、[[1702年]]に[[スウェーデン]]領ノーテボリ(この戦いにおいてロシア軍の犠牲は6,000人に達した。この地を「[[イングリア]]への鍵」とみなしたピョートル1世により、[[ドイツ語]]で「[[シュリッセリブルク]]」と名付けられた)を落とした。この時期にシェレメーテフが召使いにしていた[[リヴォニア]]出身の女性マルタを召使いとして引き取り(愛人ともされる)、マルタを気に入ったピョートル1世が彼女を引き取った後もマルタとの繋がりを保ち、後にエカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名して皇后となったマルタに助けられたりしている<ref>土肥、P45 - P46、阿部、P64 - P65、河島、P22 - P38。</ref>。
 
[[1706年]]にスウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]と戦っていたロシアの同盟者である[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]救援のためポーランド軍と合流したが、アウグスト2世がカール12世と[[アルトランシュテット条約]]を結んだため救援に失敗、ピョートル1世の元へ戻った。
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[[1707年]]にカール12世がロシアに遠征、[[ウクライナ・コサック]]の[[ヘーチマン]]・[[イヴァン・マゼーパ]]がスウェーデンに寝返ったため、[[1708年]][[11月2日]]にピョートル1世の命令でウクライナ・コサックの首都である[[バトゥールィン]]を包囲し、[[11月13日]]に守備隊の裏切りによってバトゥールィンに入りコサックを撃破、バトゥールィンを陥落させた。この時ロシア軍は男女老若を問わず住民全員を殺害し、スウェーデンと同盟したコサックを咎めるため、殺害された女子の遺体を筏に張り付けて[[セイム川]]で流した。この出来事は研究史ではバトゥールィン悲劇と呼ばれている。
 
[[1709年]]にウクライナに南下したスウェーデン軍をピョートル1世と共に迎え撃ち勝利([[ポルタヴァの戦い]])、[[1712年]]から[[デンマーク=ノルウェー]]王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]・ザクセン軍と共にスウェーデン領ドイツ([[ポメラニア]])を攻撃して[[シュチェチン|シュテッティン]](1720年に[[プロイセン王国|プロイセン領]])を落とし、[[シュトラールズント]]もデンマーク軍が包囲・陥落させたため([[シュトラールズント包囲戦]]、1720年に返還)、ポメラニアを平定して大陸のスウェーデン領の殆どを奪い取った。こうした[[反スウェーデン同盟|同盟軍]]におけるロシア軍の主導的な役割は、この地域におけるロシアの影響力を一躍、高めるさせることとなった。一方で公金横領など汚職の噂が絶えず、[[1724年]]の人口調査で逃亡農民を所領に匿ったことが発覚したが、エカチェリーナの取り成しで罷免・謹慎処分で済んだ<ref>土肥、P79 - P85、P153 - P154、阿部、P86 - P88、P95 - P104、P135 - P139、河島、P84 - P91。</ref>。
 
[[1725年]]に入りピョートル1世の死期が近くと、新興勢力の筆頭だったメーンシコフはエカチェリーナを推して有力貴族達と対立した。[[1月28日]]にピョートル1世が崩御するとメーンシコフは新興貴族と結託、近衛連隊を動かしエカチェリーナを擁立して[[クーデター]]を起こし、エカチェリーナ1世として即位させ自身が所属する[[最高枢密院]]を牛耳り実権を握った。エカチェリーナ1世の治世では政敵排除を行いながら次の政権にも留まることを画策、ピョートル1世の同名の孫[[ピョートル2世|ピョートル]]と接触して保守派との連携を狙った。