「ガーナ王国」の版間の差分

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== 伝承と記録 ==
[[トンブクトゥ]]に、[[イスラム教]]普及以前に白人によってつくられたとか22代の王がいたなどという伝承が伝わっていたようだが、今日では受け入れられていない。信用に値する記録として、11世紀半ばの歴史家と目される[[コルドバ]]のアブー=バクリが10世紀頃に[[サハラ砂漠|サハラ]]越えの旅をした人々からの証言をあつめて、ガーナ王国についてくわしく記述したものが挙げられる。
 
アブー=バクリは、ガーナ王国について、イスラム教徒にとって異教の国家であったが、彼の時代にイスラム教の影響を受け入れ始めた唯一の黒人国家であるとしている。11世紀ごろのガーナ王国の首都は al-ghaba すなわち「森」と呼ばれた。王の住んでいる場所は、柵で仕切られ、特徴的な円錐状の屋根をもつ小屋が連なっていたという。
アブー=バクリの残した細かな記述には、こう書かれている。
{{quotation|
王は、女性がつける装飾品首や腕につけていた。また良質の綿でできたターバンにくるまれた金の刺繍のされた帽子王冠として)かぶっていた。王は、臣民に謁見し、臣民の苦情を調整し、解決するときに使った小屋の周りには、金の馬飾りをつけた10頭の馬がいた。彼の背後には、金で飾られた盾や剣を運ぶための奴隷たちがいた。王の権力は、彼の封臣でもある王<ref>おそらく kafu の王ないし首長</ref>の息子たちの頭から金を編みこんだ高価な外套を着せる力に基づいていた。王の周りには、大臣たちが座り、王の前には、都市の統治者が座った。王宮のドアには、首輪に金や銀の玉飾りをつけた、血統のすぐれた犬たちがおかれて、守られていた。王の謁見式はドラムを叩くことで人々に知らされた。彼に従う異教徒(=臣民)たちは、這って王のかかとに近づき、尊敬の印として、自ら「ほこり」を頭上に撒き散らした。イスラム教徒は、あいさつの印として手を打ち鳴らした。}}
{{quotation|
王が死ぬと、王の遺体が埋葬された場所に大きな木の小屋が建てられた。その小屋には、王の食べ物や飲み物を捧げるために王が生前に飲食に使用した器が置かれた。食べ物や飲み物を捧げる人々は、墓の入り口を安全に保つため、小屋にマットや布を被せて土をそのうえにかけたので、自然地形の丘そっくりに見えた。|}}