「スヴェトザル・ボロイェヴィッチ」の版間の差分
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[[Image:Svetozar boroevic von bojna.jpg|thumb|スヴェトザル・ボロイェヴィッチ]]
'''スヴェトザル・ボロイェヴィッチ・オド・ボイネ'''(
士官学校を出て陸軍入隊後、[[1878年]]の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]に基づく[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]進駐に参加([[1908年]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|併合宣言]]まで名目上の宗主権は[[オスマン帝国]]にあった)。その後士官学校で再教育を受けてから、今度は数年間教官を務めたのち、再び指揮官に復帰している。
[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が開戦すると[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]に配属され、[[1914年]]9月の初めは、第三軍の指揮官に転進し、10月の初めに、彼はプレツミスル要塞をロシア軍の包囲から一時的に解放し、プレツミスル(現[[プシェムィシル]])の小康状態をもたらす。しかし東部戦線ではオーストリア軍の敗走が続き、第三軍も[[カルパ
包囲されたプレツミスル要塞を救援すべく、年明けの1月の真冬に攻勢命令が[[参謀本部]]から出るが、真冬のしかも山中の進軍はほとんど叶わず、攻撃は翌月に中止され、翌3月にはプレツミスル要塞のオーストリア軍は降伏し要塞は開城する。しかし程なく[[ドイツ軍]]の増援が到着し、[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]率いる独第十一軍と[[ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・フェルディナント]]大公の墺第四軍による、戦線の突出部のゴルリッツ突破をはたすが、この間、[[イタリア王国]]がオーストリアに宣戦布告し、ボロ
転属となり、後事をマッケンゼンに託す。独墺軍は翌月にプルゼミスル、続いてレンベル
[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]では第四軍司令官となり、イタリア軍を[[イゾンツォ川]]を挟んで対峙する。この河を挟んだイタリア軍の攻勢を寡兵であったにもかかわらず十一度にもわたって彼は防ぎ切っている。そのため、「イゾンツォの騎士」の異名をとった。1916年]]5月1日には[[上級大将]]に昇進を果たし、[[1917年]]8月23日には、イタリア戦線の指揮官に、[[1918年]]2月1日には陸軍[[元帥]]に昇進、[[マリア・テレジア軍事勲章]]他多数の勲章を受章した。
オーストリアが数において優勢であったイタリア軍を退けることができたのは、山岳地形を有利に利用した防御戦術であり、戦線は十一回にわたる攻防戦においてほとんど変わらなかったが、続く[[カポレットの戦い]]と[[ピアーヴェ川の戦い]]において戦況は両者の間で大きく揺れ動くことになる。オーストリアはカポレットの戦いにてドイツ軍の支援の下、イタリア軍に大勝したが、続くピアーヴェ川の戦いの攻勢に失敗。敗戦間近の厭戦気分のもとで脱走兵を大量に出す中、ボロ
戦後、領土を縮小された[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]国内に移住し、1920年5月[[クラーゲンフルト]]で死去。
==参考文献==
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