「石那坂の戦い」の版間の差分

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また、新しい説として「飯坂」説がある。吾妻鏡では、頼朝軍は8月7日国見に到着、8日に阿津賀志山合戦・石那坂合戦を行っている。行軍ルート上、日時的には福島市南部よりも、福島市北部が整合性は取れる。飯坂の地名の由来は1300年以降であり、佐藤庄司の本拠(飯坂)は石那坂と呼ばれていたと考えられている。福島県石那坂で敗れた[[佐藤基治]]は、青森県に逃れたという伝承が青森県[[石名坂館]]に残っている。青森県石名坂は、佐藤基春なる人物によって、かつての所領から石名坂と名付けられたという。佐藤庄司の本拠である大鳥城([[舘の山公園]])が「石那坂の上」であると石原洋三郎氏は主張している。
 
吾妻鏡では、「伊達郡沢原」から侵攻した頼朝軍が石那坂を陥落させている。
 
== 戦後 ==