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'''エリファス・レヴィ'''('''Eliphas Levi'''、本名'''アルフォンス・ルイ・コンスタン''' ({{Lang|fr|Alphonse Louis Constant}})、[[1810年]][[2月8日]] - [[1875年]][[5月31日]])は、[[フランス]]・[[パリ]]出身の[[ロマン派]][[詩人]]、[[神秘学|隠秘学]]思想家。41歳のの時に本名を[[ヘブライ語]]風にした「エリファス・レヴィ」に改名し、隠秘学の著作をした。
 
パリの文芸サロンに[[小ロマン派]]のひとりとして文芸サロンに出入りしていたが、後に[[カバラ]]、[[錬金術]]、[[ヘルメス思想|ヘルメス学]]、[[キリスト教神秘主義]]などの研究を行い、[[近代西洋儀式魔術|近代ヨーロッパにおける魔術復興]]の象徴的存在となった。[[魔術]]は理性に基づいた合理的科学であると主張し、実際にはその教義体系は精密さを欠くものであったが、古代の密儀、[[タロット]]、{{仮リンク|儀式魔術|en|Ceremonial magic}}などのさまざまな伝統を「魔術」の名の下に総括しようとした。
 
後のフランス、[[イギリス]]のオカルティストに大きな影響を及ぼしている。また[[シャルル・ボードレール]]、[[ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[ステファヌ・マラルメ]]、[[アルチュール・ランボー]]、[[W・B・イエーツ]]、[[アンドレ・ブルトン]]、[[ジョルジュ・バタイユ]]などの作家、詩人たちも影響を受けたとされる。
 
==生涯==
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貧しい職人の家の一人息子として生まれた。少年時代は病気がちだったが、頭がよく善良な子供で、15歳の時に司祭になるために聖ニコラ・デュ・シャルドネ神学校に入学。ヘブライ語や哲学を学び、また校長のフレール・コロンナは動物磁気学の研究家で、[[ヨアキム主義|ヨアキム的な終末思想]]の持ち主であり、コンスタンにも感化を及ぼした。次いで神学研究のために[[サン=シュルピス教会|聖シュルピス神学校]]に再入学し、聖シュルピス会創立者オリエの著作に親しみ大きな影響を受けた。
 
1835年に25歳の若さで[[助祭]]に任命され、聖シュルピス教会の伝道師となる。しかしこの翌年にある娘に恋をし、神学校を脱退、このために母親は自殺したとも伝えられる。コンスタンは[[サンディカリズム]]と女権運動家のフロラ・トリスタンに出会いって[[社会主義]]思想を知り、社会主義者で詩人であったアルフォンス・エスキロスの手引きで、[[小ロマン派]]の文学サークルに出入りするようになる。ここで知り合った彫刻家で女性崇拝宗教を主宰していたマパ・ガンノーを、[[バルザック]]にも紹介している
 
===ロマン派詩人として===
1939年に信仰に立ち返ろうとし、[[ソレム (サルト県)|ソレーム]]の[[ベネディクト派]]修道院に滞在する。ここでフェヌロンや[[ギュイヨン夫人]]の[[キエティスム|静寂主義]]や、クリューデネル夫人の[[敬虔主義]]の著作に触れ、[[マリア崇拝]]の伝説集『五月の薔薇の樹』を出版し、これが処女作となる。しかし修道院の入院資格を認められなかったため、デューイ村の学校の生徒監となる。ここで[[聖書]]から社会主義的な思想を論じる『自由の聖書』を出版するが、「聖書の教えを不法に誤り伝えた」として8ヶ月の禁固と300フランの罰金の刑を受け、著作の全部を押収され、サント・ペラジーの刑務所に収監されて、この獄中でエスキロスに再会し、社会主義者の[[フェリシテ・ド・ラムネー]]にも知り合い、また[[スウェーデンボルグ]]や様々な[[隠秘学]]の著作にも出会う。出所すると、[[エヴルー]]の教会で宗教画や小説の挿絵の仕事をしながら、1941年には女性崇拝思想を展開する『女の昇天あるいは愛の書』を出版。1844年に正統的なカトリック信仰を表すものとして出版した『神の母、宗教的人道主義的叙事詩』は、しかし[[聖母マリア]]と社会主義、[[最後の審判]]と革命論、[[黙示録]]後の世界としての[[ユートピア]]などを述べた内容はカトリック界では受け入れられず、教会から退去させられる。
 
以後、個人教授をしながら執筆を続け、1945年の詩集『三つの調和』の「コレスポンダンス」は、ボードレールの「万物照応(''Correspondances'')」に影響を与えたことで知られる。1846年に自分が教えていた17歳の女子学生マリー・ノエミ・カディオと結婚。
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1854年にイギリスで小説家[[エドワード・ブルワー=リットン]]と知り合い、リットンの属している[[薔薇十字団|薔薇十字協会]]に加入して、大きな影響を受ける。帰国後に、フランスの薔薇十字団を再建。1856年に『高等魔術の教理と儀式』を刊行。1860年から『秘教哲学全集』全6巻の刊行を開始。その後も隠秘学の著作をまず多く執筆し、1875年にパリで死去した。
 
==主な著==
神学校時代のコンスタンは、オリエの著作から聖母崇拝、女性崇拝への志向を強めていった。『五月の薔薇の樹』も神秘主義的な著作であり、『女の昇天あるいは愛の書』は女性そのものをキリストと同一視するという女性崇拝思想が述べられている。イタリアの神秘主義者シルヴィオ・ペリコや、スウェーデンボルグらの影響を受け、社会主義系の出版社ル・ガロワから出た『涙の書あるいは慰安者キリスト』は、キリストが近代の現れて社会主義思想を実現するという物語である。
 
『高等魔術の教理と儀式』は、隠秘学の原理であるアナロジーが[[象徴主義]]に結びついてユゴー、ボードレール、リラダン、マラルメ、イエイツ、ジャリなどの象徴派詩人に深い影響を与え<ref>澁澤龍彦「フランス奇想小説の系譜」(『西欧文芸批評集成』河出書房新社 2011年)</ref>、また現代の[[ジェイムズ・ジョイス]]、[[アンドレ・ブルトン]]などの作家にも影響した。
『秘教哲学全集』は隠秘学に関する膨大な著作で、この中の『魔術の歴史』はランボーが夢中になって読んだと言われ、[[ヘンリー・ミラー]]の『わが読書』でもたびたび引用されている。
 
===主な著作===
*le Rosier de mai ou la Guirlande de Marie、1939年(『五月の薔薇の樹』)
*La Bible de la liberté、1841年(『自由の聖書』)
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==参考文献==
<references/>
*[[横山茂雄|稲生平太郎]]「影の水脈」『定本 何かが空を飛んでいる』 国書刊行会、1913年。
*[[澁澤龍彦]]『悪魔のいる文学史 神秘家と狂詩人』中央公論社 1982年