「ポーランド・ソビエト戦争」の版間の差分
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== 概要 ==
第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と[[ロシア内戦|内戦]]の影響により、混沌とした情勢にあった。[[パリ講和会議]]<!-- 違っていたら訂正お願い致します -->の結果により、[[ポーランド分割]]以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、民族的・宗教的影響やかつての[[ポーランド・リトアニア共和国]]の領域や[[人口動態]]などから[[ベラルーシ]]西部やウクライナ西部の土地に野心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、[[ポーランド分割|分割]]前
[[1920年]]当初、ポーランド軍は[[キエフ]]を占領するなど大きく進撃した 進撃を続けるポーランドは支配圏を[[ミンスク]]近辺まで到達させたものの、財政難の危険により、ソ連の提案で10月に停戦に応じることとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドは[[ヴィリニュス]](ヴィルノ)を中心としたヴィルノ地方などリトアニア中部と[[リヴィウ]](ルヴフ)を中心とした[[ガリツィア]]地方などウクライナ西部を併合し、東方領土を正式画定した。 == 背景 ==
[[ファイル:PBW March 1919.png|thumb|240px|1919年3月の勢力範囲]]
[[1918年]]に第一次世界大戦が終了すると、[[東ヨーロッパ|東欧]]は大きな変革を迎えることとなった。[[ドイツ]]の敗北により、ドイツによる東欧の[[緩衝国家]]建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国([[ポーランド・リトアニア共和国]])として東欧に広大な領域を保有していたが、[[ポーランド分割]]によりその領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]、ロシアなどから領土を奪った。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった
ポーランドは[[ユゼフ・ピウスツキ]]を中心に、かつてのポーランド王国([[ポーランド・リトアニア共和国]])領域の復活と、ポーランドを中心とした[[反共]]国家連合によってソビエト連邦(ソ連)および([[ドイツ革命]]と前後して労働運動が激化し[[共産主義革命]]の瀬戸際にあった)ドイツと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはソ連の政体そのものへの干渉やロシア地域の征服などの意図は持っておらず、旧ポーランド王国の版図全体における自らの国家建設とその思想的・領土的防衛が第一であった。しかしながら、ピウスツキの[[民主主義]]、[[自由主義]]、多民族主義([[文化多元主義]])の並立理念すなわち旧ポーランド・リトアニア共和国(の[[5月3日憲法|1791年5月3日憲法]])の理念の復刻である「[[ヤギェウォ理念]]」に対するソ連の警戒感情は(この理念がまさにソ連の革命にとっての[[反革命]]の理念に他ならないことであるから)当然のことながら非常に高く、また革命を機に旧[[ロシア帝国]]の勢力範囲からの分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた[[小ロシア]](ウクライナ)へのポーランド(小ロシア地方は1795年の[[ポーランド分割]]以前は旧ポーランド・リトアニア共和国の領土であった)の干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権の、ポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた。
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東部戦線のドイツ軍は1918年より撤退を開始した。ドイツ軍の撤退後には、各地域に共産主義政権が誕生したが、ロシアの革命政府はそれらの共産主義政権と連携することを望んでいた。ただし、各地域の共産主義政権は、小規模で連携が取れておらず、場合によっては対立するなど、東欧は混沌とした状況にあった。1918年[[11月18日]]にレーニンはドイツ軍が撤退した地域に向けて赤軍を進出させるように命令を出した。目的は、各地の共産主義政権と連携することのほか、ドイツと[[オーストリア]]の革命勢力を支援することにあった。
1919年2月からポーランド軍はフランスの支援を受けて、革命政権のソ連を仮想敵とし、軍の編成を開始した。フランスは、ロシアにおいて[[白軍]]が不利であったことから、
1919年2月に、[[ヴィリニュス]]において、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンから[[ネマン川]]([[ロシア語]]: ニェーマン川、[[ポーランド語]]: ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ネマン川を越えて、[[リダ]]や[[スロニム]]の町に進撃している。また、[[グロドノ]]やヴィリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍は[[ダウガヴァ川|ドヴィナー川]]まで進撃した。
[[ファイル:PBW December 1919.png|thumb|240px|1919年12月の勢力範囲]]
1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した
和平交渉は1919年中に行われてはいたものの、ポーランドの政治家はソ連に対する譲歩を拒否し、成立しなかった。また、[[リトアニア]]が独立の際、ヴィリニュスを首都予定地とし、ポーランドと交渉を行ったものの、[[文化多元主義|多民族]]の旧[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指すポーランドは[[民族主義]]国家を目指す新生リトアニアには譲歩せず自国領ととしたために、両国の関係は悪化している。一方、[[ラトビア]]との交渉においてはポーランド軍への協力を得ることに成功しており、
=== 1920年 ===
[[1920年]]に入ると、赤軍はデニーキン軍を撃破し、
4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間にワルシャワ条約を結び、彼の再建したウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣([[ディレクトーリヤ]])軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナ[[民族主義]]思想の宿敵であるはずの多民族国家ポーランドとの連合も辞さなかった。
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=== 外交 ===
[[File:Leon Trotsky.JPG|thumb|left|ポーランドのポスター『[[ボリシェヴィキ]]の自由』。裸の男は[[レフ・トロツキー]]。]]
ポーランドの首相S・グラブスキ
ソ連は、7月28日、占領したポーランド地域に[[共産政権]]であるポーランド臨時革命委員会
新生リトアニアは反ポーランドの姿勢であり、ソ連の圧力と、ヴィリニュスの確保の目的のために1919年7月にソ連側で参戦した。
フランスは軍事顧問団を派遣するなど、ポーランドを支援していた。1920年にポーランドが危機に陥ると、フランスとイギリスはさらに[[マキシム・ウェイガン]]将軍を軍事顧問として派遣した。
=== ヴィスワ川の奇跡 ===
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8月17日には、赤軍のリヴィウへの進撃が停止した。[[8月29日]]から[[8月31日|31日]]にかけて、第一騎兵軍もリヴィウの北、[[ザモシチ|ザモシュチュ]]でポーランド騎兵部隊と戦闘を行い、敗退する。[[9月6日]]の戦闘でも敗退し、東方のヴラジミルボルィンスキ方向へ撤退した。
トゥハチェフスキーは赤軍の部隊を再編成し、9月にはグロドノ付近に戦線を構築
10月半ばに至り、ポーランドがベラルーシの首都[[ミンスク]]近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、[[10月12日]]に停戦条約である[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]に調印、18日に発効した。
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この戦争を見聞したシャルル・ド・ゴールなどは、次の戦争の形態を正確に予測するに至った。ポーランド政府は、この戦争の経験から騎兵部隊を重要視し、その練成を積極的に行うこととなった。
=== ウクライナへの影響 ===
ポーランド政府は、ロシア・ソビエト政府とウクライナ・ソビエト政府との間に
ソビエト政府は軍事的な敗北をしたこともあって、領土面で大幅にポーランドに譲歩し、ベラルーシおよびウクライナの西部([[ガリツィア]])はポーランド領となった。ポーランドも消耗していたため、和平を結ぶことには同意していた。しかし、これは個別和平を結ばないとする、[[ウクライナ人]][[民族主義]]勢力との軍事同盟に反するものであった。このことは、後にソ連の反ポーランド[[プロパガンダ]]に利用されることとなった。
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