「ポーランド・ソビエト戦争」の版間の差分

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== 概要 ==
第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と[[ロシア内戦|内戦]]の影響により、混沌とした情勢にあった。[[パリ講和会議]]<!-- 違っていたら訂正お願い致します -->の結果により、[[ポーランド分割]]以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、民族的・宗教的影響やかつての[[ポーランド・リトアニア共和国]]の領域や[[人口動態]]などから[[ベラルーシ]]西部やウクライナ西部の土地に野心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、[[ポーランド分割|分割]]前(1772([[1772]][[8月5日]]以前)の領土を回復し[[1791年]]以後のポーランド国家の版図を復活させるため、[[ロシア内戦]]の混乱に乗じて[[ソ連]]に侵攻した。

[[1920年]]当初、ポーランド軍は[[キエフ]]を占領するなど大きく進撃した。しかし、その後ポーランド軍は政治的な理由により[[フランス]]の軍事顧問団による作戦を採用すると騎兵の機動力を生かせなくなりソ連を攻めあぐね、1920年4月以降は[[赤軍]]が反撃を開始、6月には[[ワルシャワ]]を包囲した。しかし、[[ユゼフ・ピウスツキ]]が策定した騎兵の大群による長距離高速度行軍(フランスの軍事顧問団は反対していた)を用いた乾坤一擲の大機動作戦が大成功し、これにより[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]率いる赤軍はほぼ全軍が包囲殲滅の危険に晒されて崩壊、敗走を開始した。これは後に「'''ヴィスワ川の奇跡'''」と呼ばれる。この大逆転劇により8月末から赤軍は撤退、ポーランド軍はソ連軍に対する猛烈な追撃に転じた。赤軍は東方より体勢を立て直そうとするが、ポーランド軍機動部隊はこれらの試みをも粉砕した。

進撃を続けるポーランドは支配圏を[[ミンスク]]近辺まで到達させたものの、財政難の危険により、ソ連の提案で10月に停戦に応じることとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドは[[ヴィリニュス]](ヴィルノ)を中心としたヴィルノ地方などリトアニア中部と[[リヴィウ]](ルヴフ)を中心とした[[ガリツィア]]地方などウクライナ西部を併合し、東方領土を正式画定した。
 
== 背景 ==
[[ファイル:PBW March 1919.png|thumb|240px|1919年3月の勢力範囲]]
[[1918年]]に第一次世界大戦が終了すると、[[東ヨーロッパ|東欧]]は大きな変革を迎えることとなった。[[ドイツ]]の敗北により、ドイツによる東欧の[[緩衝国家]]建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国([[ポーランド・リトアニア共和国]])として東欧に広大な領域を保有していたが、[[ポーランド分割]]によりその領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]、ロシアなどから領土を奪った。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった(ただし、1919年12月には境界として[[カーゾン線]]の提案がなされている
 
ポーランドは[[ユゼフ・ピウスツキ]]を中心に、かつてのポーランド王国([[ポーランド・リトアニア共和国]])領域の復活と、ポーランドを中心とした[[反共]]国家連合によってソビエト連邦(ソ連)および([[ドイツ革命]]と前後して労働運動が激化し[[共産主義革命]]の瀬戸際にあった)ドイツと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはソ連の政体そのものへの干渉やロシア地域の征服などの意図は持っておらず、旧ポーランド王国の版図全体における自らの国家建設とその思想的・領土的防衛が第一であった。しかしながら、ピウスツキの[[民主主義]]、[[自由主義]]、多民族主義([[文化多元主義]])の並立理念すなわち旧ポーランド・リトアニア共和国(の[[5月3日憲法|1791年5月3日憲法]])の理念の復刻である「[[ヤギェウォ理念]]」に対するソ連の警戒感情は(この理念がまさにソ連の革命にとっての[[反革命]]の理念に他ならないことであるから)当然のことながら非常に高く、また革命を機に旧[[ロシア帝国]]の勢力範囲からの分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた[[小ロシア]](ウクライナ)へのポーランド(小ロシア地方は1795年の[[ポーランド分割]]以前は旧ポーランド・リトアニア共和国の領土であった)の干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権の、ポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた。
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東部戦線のドイツ軍は1918年より撤退を開始した。ドイツ軍の撤退後には、各地域に共産主義政権が誕生したが、ロシアの革命政府はそれらの共産主義政権と連携することを望んでいた。ただし、各地域の共産主義政権は、小規模で連携が取れておらず、場合によっては対立するなど、東欧は混沌とした状況にあった。1918年[[11月18日]]にレーニンはドイツ軍が撤退した地域に向けて赤軍を進出させるように命令を出した。目的は、各地の共産主義政権と連携することのほか、ドイツと[[オーストリア]]の革命勢力を支援することにあった。
 
1919年2月からポーランド軍はフランスの支援を受けて、革命政権のソ連を仮想敵とし、軍の編成を開始した。フランスは、ロシアにおいて[[白軍]]が不利であったことから、その代わりとして[[自由主義]]陣営のポーランドを支援することを決定し、400名の士官からなる[[軍事顧問|軍事顧問団]]をポーランドに派遣した。これ(軍事顧問団には[[シャルル・ド・ゴール]]も参加、[[イギリス]]の士官も小数加わっていた。フランスの軍事顧問団はドイツやロシア、オーストリア・ハンガリーの遺棄機材などを用いて、ポーランド軍の編成を行った。軍事顧問団には、[[シャルル・ド・ゴール]]も加わっていた。亡命ポーランド人やポーランド移民で構成され、第一次世界大戦においては西部戦線で義勇兵部隊として戦っていたハラー (J(J.Hallera) Hallera)将軍の部隊も、ポーランド軍に加わった。これにより、1919年9月にはポーランド軍は54万人の兵員を有し、うち23万人が東部国境に配置されていた。
 
1919年2月に、[[ヴィリニュス]]において、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンから[[ネマン川]]([[ロシア語]]: ニェーマン川、[[ポーランド語]]: ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ネマン川を越えて、[[リダ]]や[[スロニム]]の町に進撃している。また、[[グロドノ]]やヴィリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍は[[ダウガヴァ川|ドヴィナー川]]まで進撃した。
 
[[ファイル:PBW December 1919.png|thumb|240px|1919年12月の勢力範囲]]
1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した、なお、1919年夏頃は、ロシア方面では[[ドン川|ドン]]地方で強大な勢力を築いた[[反革命]]の[[アントーン・デニーキン|デニーキン]]軍が[[モスクワ]]への進撃を行っているなど、旧ロシア帝国領域における干渉戦争の影響も大きかった。なお、旧ロシア帝国の[[帝国主義者]]でロシア民族至上主義者であるデニーキンはポーランドの独立に理解を示さなかったために、ポーランド政府や軍との連携は良いものではなかった。これは、デニーキン軍とウクライナ勢力との間でも同様のことであった。
 
和平交渉は1919年中に行われてはいたものの、ポーランドの政治家はソ連に対する譲歩を拒否し、成立しなかった。また、[[リトアニア]]が独立の際、ヴィリニュスを首都予定地とし、ポーランドと交渉を行ったものの、[[文化多元主義|多民族]]の旧[[ポーランド・リトアニア共和国]]の復活を目指すポーランドは[[民族主義]]国家を目指す新生リトアニアには譲歩せず自国領ととしたために、両国の関係は悪化している。一方、[[ラトビア]]との交渉においてはポーランド軍への協力を得ることに成功しており、さらに翌年にはソ連に対する[[反革命]]で意見の一致したウクライナ人民共和国との連合にも成功する。
 
=== 1920年 ===
[[1920年]]に入ると、赤軍はデニーキン軍を撃破し、またラトビアや[[エストニア]]と平和条約を結ぶことに成功したため、ポーランド方面に赤軍が集中し始めた。1920年1月には70万の赤軍が[[ベレジナ川]]付近に集中していた。1920年半ばまでに、これは80万人に増強された。このころの赤軍は、[[ドイツ軍]]の遺棄兵器や干渉軍から奪取した最新兵器で装備されていた。ポーランド軍は、1920年夏には70万の兵員を有し、兵力は赤軍と同等であったものの、兵站状況が悪く、装備が統一されていないと言う欠点を持っていた。
 
4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間にワルシャワ条約を結び、彼の再建したウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣([[ディレクトーリヤ]])軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナ[[民族主義]]思想の宿敵であるはずの多民族国家ポーランドとの連合も辞さなかった。
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=== 外交 ===
[[File:Leon Trotsky.JPG|thumb|left|ポーランドのポスター『[[ボリシェヴィキ]]の自由』。裸の男は[[レフ・トロツキー]]。]]
ポーランドの首相S・グラブスキ (S(S. Grabski) Grabski)は、7月1日、国家元首・議会(セイム)議長・首相・閣僚3人・軍代表3人・大使10人から成る国防会議に全権を委任した。ポーランド政府の要請により西側の外交官が始めた予備交渉は、ソ連側の拒否にあった。グラブスキ内閣は総辞職し、W・ウィトス (W(W. Witos) Witos)を首相とする(右翼から左翼までが一丸となった)挙国一致国防政府が成立した。ここでポーランド国民の[[愛国心]]が巻き上がり、ポーランド軍は一気に志願兵が集まり総数90万となった。
 
ソ連は、7月28日、占領したポーランド地域に[[共産政権]]であるポーランド臨時革命委員会 (Tymczasowy(Tymczasowy Komitet Rewolucyjny Polski) Polski)を樹立したが、住民の支持を受けなかったために、成功はしなかった。
 
新生リトアニアは反ポーランドの姿勢であり、ソ連の圧力と、ヴィリニュスの確保の目的のために1919年7月にソ連側で参戦した。
 
フランスは軍事顧問団を派遣するなど、ポーランドを支援していた。1920年にポーランドが危機に陥ると、フランスとイギリスはさらに[[マキシム・ウェイガン]]将軍を軍事顧問として派遣した。
 
=== ヴィスワ川の奇跡 ===
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8月17日には、赤軍のリヴィウへの進撃が停止した。[[8月29日]]から[[8月31日|31日]]にかけて、第一騎兵軍もリヴィウの北、[[ザモシチ|ザモシュチュ]]でポーランド騎兵部隊と戦闘を行い、敗退する。[[9月6日]]の戦闘でも敗退し、東方のヴラジミルボルィンスキ方向へ撤退した。
 
トゥハチェフスキーは赤軍の部隊を再編成し、9月にはグロドノ付近に戦線を構築することに成功したが、ポーランド軍はネマン川付近の戦闘で赤軍を撃破し、さらに東方への進撃を続けた。
 
10月半ばに至り、ポーランドがベラルーシの首都[[ミンスク]]近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、[[10月12日]]に停戦条約である[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]に調印、18日に発効した。
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この戦争を見聞したシャルル・ド・ゴールなどは、次の戦争の形態を正確に予測するに至った。ポーランド政府は、この戦争の経験から騎兵部隊を重要視し、その練成を積極的に行うこととなった。
=== ウクライナへの影響 ===
ポーランド政府は、ロシア・ソビエト政府とウクライナ・ソビエト政府との間に[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]を締結したが、これはポーランド政府がウクライナ・ソビエト政府をウクライナの代表政府として認めたということを意味するものであった。これはポーランドが[[西欧]]諸国や[[国際連盟]]から強い圧力を受けたためであるとはいえ、結果としてペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に結んだ「ウクライナ人民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定に違反したものになってしまった。なお、リガ条約当時ロシアとウクライナには独立してソビエト政府が存在していた。戦争当時ポーランドに亡命していたペトリューラはその後ポーランドを離れてウィーンへ亡命して「西ウクライナ人民政府」を主宰しつづけていたが、その後パリに亡命すると[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[スパイ]]によって[[1926年]]に[[暗殺]]された。
 
ソビエト政府は軍事的な敗北をしたこともあって、領土面で大幅にポーランドに譲歩し、ベラルーシおよびウクライナの西部([[ガリツィア]])はポーランド領となった。ポーランドも消耗していたため、和平を結ぶことには同意していた。しかし、これは個別和平を結ばないとする、[[ウクライナ人]][[民族主義]]勢力との軍事同盟に反するものであった。このことは、後にソ連の反ポーランド[[プロパガンダ]]に利用されることとなった。