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'''王朝国家'''('''おうちょうこっか''')は、日本が[[律令制|律令国家体制]]から[[中世]]国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。'''王朝国家体制'''とも。[[10世紀]]初頭に成立し、[[11世紀]]中期ないし[[12世紀]]後期までの期間に存続したとされる。
 
律令国家体制は、中央集権的な政治機構に立脚し、個別人身支配を人民支配・租税収取の原則としていたが、それらを実際に支えていたのは現地で人民支配・租税収取にあたる地方行政であった。9世紀後期に至って律令制的な人民支配・租税収取に限界が生じたため、10世紀初頭より、地方政治への大幅な統治委任や個別人身支配から土地課税原則への方針転換が進められ、こうして新たに構築された統治体制が王朝国家体制であるとされている。
 
11世紀中期から12世紀・13世紀初頭にかけて、[[荘園公領制]]の成立や[[院政]]・[[武家政治]]の登場などに対応した中世国家体制が漸進的に構築されていったため、この時期に王朝国家体制は終期を迎えた。ただし、王朝国家の終期をめぐっては複数の説が提示されている。
 
王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。
 
== 沿革 ==
=== 王朝国家の出現 ===
[[8世紀]]初頭に確立した[[律令制]]は、個人を徴税単位とする個別人身支配(人別支配)を基本原則としており、高度に体系化された律令法典・官僚制度・地方制度や[[古代の戸籍制度|戸籍]]・[[計帳]]などを基盤として存立していた。しかし、早くも8世紀後期頃から[[百姓]]の[[偽籍・逃亡]]が見られ始め、個別人身支配体制にほころびが生じていた。その後、8世紀後期から[[9世紀]]を通じて律令制を維持または再構築しようとする試みが繰り返されたが、大多数の貧困百姓層とごく少数の富裕百姓層(富豪層)という百姓層内の階層分離はますます加速していき、貧困層は偽籍・逃亡によって租税負担から逃れ、富豪層は[[墾田]]活動を通じて得分収取しうる田地を獲得し、貧困百姓らを囲い込んでいった。こうした状況を受け、政府は、従前の個別人身支配では十分な租税収取が満足に遂行できなくなっており、大きな方針転換を迫られていた。
 
個別人身支配の基礎となっていたのは戸籍・計帳であったが、上記の状況は、もはや戸籍・計帳による人民支配=租税収取が限界を迎えていたことを示している。こうした状況を受け、政府は、従前の個別人身支配に代わって租税収取を確保するための新たな支配体制を構築するため、大きな方針転換を迫られていた。
9世紀末~10世紀初年に[[醍醐天皇]]及び[[藤原時平]]が主導した律令制復活の最後の試みである[[延喜の治]]が失敗に終わると、次代の[[朱雀天皇]]及び[[藤原忠平]]は、個別人身支配を基調とする体制から土地課税基調の体制へと大きな政策転回を行った。朱雀期以降、律令制的人別支配を前提とする班田収授が実施されていないことなどが、この政策転回の存在を示している。土地課税を重視する考えは9世紀前期の[[藤原冬嗣]]執政期の頃から存在していたが、個別人身支配の原則を覆すまでには至っておらず、10世紀初頭の朱雀期になって初めて個別人身支配が放棄された。ここに、律令国家体制期が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。
 
9世紀末~10世紀初年に[[醍醐天皇]]及び[[藤原時平]]が主導した律令制復活の最後の試みである[[延喜の治]]が失敗に終わると、次代の[[朱雀天皇]]及び[[藤原忠平]]は、個別人身支配を基調とする体制から土地課税基調の体制へと大きな政策転回を行った。朱雀期以降、律令制的人別支配を前提とする班田収授が実施されていないことなどが、この政策転回の存在を示している。土地個人を課税を重視する考えは9世紀前期の[[藤原冬嗣]]執政期の頃から存在対象としていたが、把握する個別人身支配の原則を覆すまでは至ってらず、10世紀初頭の朱雀期になって初め、偽籍・逃亡が頻発すると課税対象である身支配が放棄された。を把握するこに、律令国家体制期とはできなくなる終わり、土地課税を基本原則のもする新たな支配体制では田地の存在さえ把握していれば収取なわち王朝国家体制が出現べき租税を収取することが十分可能となる。こうした考えが、政策方針の転回の背景にあった。
 
土地課税を重視する考えは9世紀前期の[[藤原冬嗣]]執政期の頃から存在していたが、個別人身支配の原則を覆すまでには至っておらず、10世紀初頭の朱雀期になって初めて個別人身支配が放棄された。ここに、律令国家体制期が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。
 
=== 王朝国家の成立・発展 ===
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土地課税が租税収取の基本原則とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが[[公田]]である。律令制における租税(租庸調)は、個人に対して課せられていたが、新たな租税制度のもとでは公田に対して課税がなされた。10世紀初頭頃から、公田は[[名田]]と呼ばれる租税収取の基礎単位へ編成され、現地の富豪層([[田堵]]・[[負名]]層)が名田経営と租税納入を請け負うという'''名体制'''が形成されていった。この名体制は、王朝国家体制の基盤をなすものであった。
 
国内の公田を名田へ再編成していく過程で、従来の班田図は不必要とされ、新たに国内の公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、[[国司]]に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。
 
名体制を確立するため、現地支配に当たる国司の権限強化が求められるようになり、10世紀中頃には租税収取・軍事警察などの分野で中央政府から国司への大幅な権限委譲が行われた。こうして国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち[[受領]]層が出現することとなった。強力な権限を獲得した国司は、国内に自らの行政権をあまねく及ぼすため、行政機能の強化を目的として、[[国衙]]に政所(公文所)・田所・税所・検非違使所などの機関を設置した。こうした機関の実務官僚として、現地の富豪層・田堵負名層が採用され、[[在庁官人]]として地方行政の実務にあたるようになった。このような状況は10世紀から11世紀にかけて顕著となっていく。
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=== 王朝国家の再編成とその終期 ===
上記に見た王朝国家体制のあり方に、11世紀中期頃から変質が見られるようになった。この時期に制定されたの王朝国家の変質を示す指標としては、公田官物率法の制定一国内別名税率を固積極的な設化する内容を持ち国司に付与された租税収取所領相論審判に大きの太政官への集中化制限を加えたどがある
 
11世紀40年代ごろから太政官によって制定され始めた公田官物率法は、一国内の税率を固定化する内容を持っており国司に付与された租税収取権に大きな制限を加えた。国司苛政上訴がこの時期までに消滅したのは、公田官物率法が国司の課税権限を抑制し、郡司・田堵負名層との利害関係が解消されたからだとされている。同時また11世紀中には、それまでの名田より遥かに大規模な名田=[[別名]](べちみょう)が盛んに設定された。別名は、従来の地方行政組織であった郡・郷とは別個に設定され、そのため国-郡-郷という組織体系は崩れ、国の下に郡・郷・別名のほか、保・条・院などの租税収取単位が同列で併存するようになった。また、所領相論に係る裁判についても、それまで国・郡に裁判権が認められていたのが、11世紀中期以降は、[[太政官]]のみが裁判することとされた。こうした動きを王朝国家体制の変質と見る立場からは、11世紀中期以前を前期王朝国家、同中期以降を後期王朝国家と区分し、鎌倉幕府が成立した12世紀末を後期王朝国家の終期としている
 
こうした支配体制を改変する動きは、1040年代を中心とする11世紀中期になって非常に顕著に見られる。これらの動きがどのような性格を持つのかについては、様々な議論があるが、坂本賞三らはこの時期を王朝国家体制の変質期であるとして、同時期以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分し、鎌倉幕府が成立した12世紀末を後期王朝国家の終期においている。
 
11世紀中期に見られた体制変化・社会変化は、当時徐々に一円化を進め、著しい増加を見せていた荘園に対抗するための国衙側(公領側)の対応策であった。これらの動きは、中世を通じて社会体制であり続けた[[荘園公領制]]の出現を意味するものであり、これと相前後して開始した[[院政]]と併せて、11世紀後期には既に中世に入っていたと見ることもできる。そうした立場からは、古代から中世への過渡期に位置づけられるべき王朝国家体制期は、11世紀中期に終わったのだとする見解も出されている。