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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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王凌は統治能力に優れていたため、[[兗州]]・[[青州 (山東省)|青州]]・[[豫州]]・[[揚州]]の[[刺史]]になった。また人民は王凌の統治を称賛している。特に、[[王基]]と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民から非常に称えられた。しかし[[満寵]]とは対立し、その失脚を狙ったが失敗した。呉の武将の孫布が魏への降伏を申し出た際に、[[満寵]]が偽装降伏であると見抜いたが、王凌はそれに従わずに孫布を迎えに行くために出兵し、大敗した。
 
 
[[241年]]、王凌は呉の[[全ソウ|全琮]]を撃退し、秦晃を戦死させた。この功績により南郷侯に爵位が進み、[[車騎将軍]]となった。その後、[[三公]]の[[司空]]・[[太尉]]を歴任した。
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しかし251年、司馬懿に計画を察知されて失敗し、降伏した。その後、司馬懿が自分を誅殺するつもりであることを悟り、護送の途中で[[賈逵 (魏)|賈逵]]を祀った廟の前を通りかかった時に「梁道(賈逵の字)殿、この王凌は元より魏の社稷に忠実な男です。あなたに神格があるのなら、ご存知の筈です」と叫んだという。そして、都へ到着する前に'''項'''という地域を通りかかった時、服毒自殺した。齢80。やがて、計画を諫めた長子の王広らと孫・曾孫らも含めて、王凌の三族は[[処刑]]された。
 
小説『[[三国志演義]]』には登場しない人物である。
 
王凌の妹は[[郭淮]]の妻である。彼女もまた兄の王凌に連座して誅殺されかけたが、彼女の子である郭統ら五人の息子は涙を流しながら、地面に額を叩きつけ血を流し生母の助命を哀願していたという。事の重大さを覚った郭淮が、司馬懿に対し「五人の息子は母を憐み、もし母に死を賜れば彼らはその後を追うことでしょう。五人の息子を亡くせば、(私である)淮もすぐに妻の後を追うことになるでしょう」と言上したため、彼女は助命されたという<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書王淩伝の注に引く『[[世語]]』</ref>。
 
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に、王凌の従兄弟の6世の子孫にあたる[[宋 (南朝)|宋]]の武将[[王玄謨]]は幼少の頃から優秀さを褒められ、王凌のようだ(太尉の彦雲の風あり)といわれたという<ref>『[[宋書]]』王玄謨伝</ref>。
 
 
なお、小説『[[三国志演義]]』には登場しない人物である。
 
==脚注==