「パウロ6世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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{{ infobox 教皇
| 日本語名 = <small>福者</small>パウロ6世
| タイトル = 第262代 [[ローマ教皇]]
| 画像 = [[ファイル:Paulaudenece1977.jpg|250px]]
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| 曖昧 = パウロ
}}
'''パウロ6世'''({{lang-la|'''Paulus PP. VI'''}}、{{lang-en|'''Paul VI'''}}、[[1897年]][[9月26日]] - [[1978年]][[8月6日]])は、第262代[[ローマ教皇]](在位:[[1963年]][[6月21日]] - [[1978年]][[8月6日]])。[[カトリック教会]]の[[福者]]。

本名は'''ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ'''(Giovanni Battista Montini)。[[第2バチカン公会議]]を[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]から引継いで全うし、その理念の実施を促進。'''パウルス6世'''とも表記される。
 
== 生涯 ==
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パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世のもとでシノドス(司教会議)が初めて行われ、現代にいたっている。
 
教皇としてパウロ6世が1968年に発布した[[回勅]]「[[フマーネ・ヴィテ]]」は大きな論議を呼んだ。それはカトリック教会が人工的な産児制限を否定したためであった。この人工産児制限および司祭の[[キリスト教における独身制|独身性]]という二つの問題はこの時代に全世界で論議を呼び、教皇の頭を悩ました。
 
[[画像:Nixon & Paul VI.gif|250px|thumb|[[リチャード・ニクソン]](左)と]]
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精力的に活動し、全世界を旅したパウロ6世は第2バチカン公会議後の新しい教皇像を示した。パウロ6世は[[1978年]]に[[カステル・ガンドルフォ]]の教皇別荘で死去したが、パウロ6世の示した「現代の教皇としての姿勢」は、後継の教皇たちに引き継がれていった。
 
死から36年後の[[2014年]][[10月19日]]、[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]によって[[列福]]された。列福式には[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]も出席した<ref>[http://ja.radiovaticana.va/news/2014/10/19/%E6%95%99%E7%9A%87%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%EF%BC%96%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%88%97%E7%A6%8F%E5%BC%8F%E3%80%81%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%89%E3%82%B9%E9%96%89%E4%BC%9A%E3%81%A8%E5%85%B1%E3%81%AB/gia-831907 教皇パウロ6世の列福式、シノドス閉会と共に]、バチカン放送局日本語版、2014年10月19日付け。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<div class="references-small"><references /></div>
 
== 関連項目 ==
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[[Category:司教]]
[[Category:枢機卿]]
[[Category:者]]
[[Category:1897年生]]
[[Category:1978年没]]